二日目 偽の者 その1

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二日目 偽の者 その1

  嫌悪感が小さな風に乗って旅をしている、そんな静かな朝だった。  小鳥の囀りも、  人間の行き交う声も、  顔を覗かせる朝日で影を生み出すものは誰も居ない。  風香は布団の外に漂う剣吞な空気を察してか、微睡む事も無く瞼を開く。その状態のまま暫く硬直した。意識がハッキリすると、風香は布団を退かして上体を起こした。そうして、時計を横目で見る。  『ジコク、ゴゼン七時半』  既に目覚まし時計は鳴り響いた後の様だ。私はまた無意識に目覚まし時計を止めて二度寝をしていたらしい。情けない気持ちに陥りながらも、両頬を力いっぱい叩いてから、そそくさと洗面所に向かった。  鏡は全てを澱みなく映す。身体だけではなく、ありふれた日常も、人間性すら反射する。  だから、鏡を前にして、風香は自分が今、有り得ない事をしていることに気が付いた。 「雅乃…………?」  普段なら風香が一人で起き上がることは無い。目が覚めれば、真っ白い天井よりも先に葡萄の様な親友の深い紫色の髪が視界に入る筈なのに。  部屋を見渡す。風香以外に人は居ない。 「あぁ、そういうことね」  風香は何やら感づいたらしく、ぼさぼさに乱れた髪を直す前に洗面所を後にして、何故か愉快そうな足取りで、相部屋の少女のベッドに向かった。片手に文明の利器たる、スマートフォンを持って。 一一一一一一一一  曰く、この学園には冷淡たる女王が居るらしい。葡萄の様な髪は伸びきっておらずショートヘアで入学当初上級生すら恐れる暴君がこの桜木葉学園に君臨していた。  上からモノを見るような視線を常に周囲に振り撒いていた彼女は、特段名のある貴族の血筋などでは無かった。だから高校に上がって間もない頃、学園でもトップクラスの知名度を誇る貴族のお嬢様が、彼女を呼びだした。あの時の学園全体の戦々恐々とした空気間は、今でもあまり思い出したくない記憶の一つだ。  屋上に連れ込まれた彼女は、一人。それに対して、彼女を糾弾するのは五人は居ただろうか。当時、あまり仲は良くなかったが、同居人ということもあって心配でつい様子を見に行ってしまった。そうしたら、屋上から早歩きで例の彼女は出てきた。その顔はまるで汚れを落とした窓ガラスのように清々しい表情をしていた。  隠れている私を一瞥するも、すぐに階段を降りて行ってしまう。  少女が見たのは、酷い惨状だった。  フェンスに叩きつけられた様な後を残して、地面に倒れ込んだ五人のお嬢様方。骨が折れているのか、全員が気品の無い声で悶えていた。  私は彼女が暴力を振るった事を察して、今し方階段を降りて行った彼女を必死に追いかけた。今思えば、どうしてそんな行動をしたのか覚えていないが、あの時は何も考えず本能的に動いていた気がする。 「待ってっ!!」  上から降り注ぐ声に驚いた様に、彼女は振り返った。 「このままじゃ…………ダメよっ!!」  余りの大声に雅乃は耳を塞いだ。そして、音圧で人を殺せそうな声量が自分よりも小さな少女が発したことに驚く。 「…………はい?」  あまりの勢いに呆気に取られている彼女を見下ろして続けた。 「なんですか、」 「だって、貴方このままじゃ、悪者扱いを受けちゃうじゃない!?」 「私は、悪者よ。何も間違って無いし。それに貴方には関係ないし、何も困らないでしょ?」 「困るよっ!! だって、私が一人で起きれないし!!」 「…………それと、どう関係があるのよ」 「だって、貴方毎朝こっそり私を起こしてくれてるでしょ?」 「っ!? あ、え? えっと……………………いや、そんなことしてないわ」 「噓。毎朝、コッソリ肩を揺らして遅刻しない様にしてくれてるの、私知ってるから」  彼女の頬は熟した葡萄の様にほんのりと赤くなった。目線が少しだけ泳いでいる。この事実を本人に告げるのは野暮なことだと分かってはいるが、今は彼女が善人であることの証明が必要だったのだ。 「貴方は、品の無い田舎者を陰で支えてくれている。そんな人が理由も無く人を傷つけたりしない。何か理由があったんでしょ? しっかり説明すれば、きっと何とかなるはず…………」 「理由なんてない」  突っ返すように雅乃は階段の踊り場に立つ同居人を睨む。 「それに、無理よ。知ってる。あそこに横たわっていたうちの一人は学校長の娘さんなの。娘を傷つけられた校長が、私に与える仕打ちなんか、決まってるわ」 「平気。私が、何とかする」 「え?」 「私が何とかするからさ。代わりと言ってはなんだけど」 「何?」 「その同居人っていう呼び方を止めて。私達はこれから名前で呼び合うの」 「何故に」 「理由なんてない。私は貴方と友達になりたいだけなんだからっ!!」  その勢いに鼻を折られたのか、雅乃は顔を下に向けて小さくため息を付いたあと、少しだけ笑みを浮かべた。  その後、本当に何とかなるとは雅乃も当時思っていなかったらしい。生まれたばかりの風は、いずれすべてを巻き込み、捻じる台風にもなりえる。風香の中にある着火剤の様な覚悟は人へ人へと火をつけて連鎖する。  それは、全てを飲み込み、全てを奪い、全てを破壊しかねないことを、まだ誰も知らない。 二二二二二二二二  学園の悪魔の様な存在である彼女が、透き通った髪の何本かを口に挟み、右へ左へ捻じれた髪の毛のまま、瞼を擦りながら、お腹を出して、いびきをかいている。もしも完璧主義である彼女の哀れな姿を写真に納めることができたら、どれ程面白いことだろう。 「ふふっ」  風香は込み上げる笑いを必死に抑えながら、そろり、そろり、とベッドに近づいて行った。布団は僅かに膨らんでいる。顔を出して寝ないのは、彼女のいつもの癖だ。その癖が移ったのか、最近私も同じように布団に潜り込んでしまう。 「雅乃~~!! お寝坊さーーん!!」  大きな声で布団をバッと捲った。子供から玩具を奪い取る様な加虐心に満ちた声。抵抗する間もなく、布団は部屋の真ん中に吹き飛ばされた。 「って、あれ?」  布団には人間は一人もいなかった。ただ、雅乃の大好きな趣味の悪いムキムキの縫いぐるみが真顔で横たわっているだけで、相部屋の少女は居なくなっていた。  流石に焦って部屋を見渡した。よく見たら、ハンガーに掛けられた制服が無い。そこで初めて彼女が外に出ていることに気が付いた。 「こんな朝早くから……一体どこに」  風香は同居人の安否を心配して部屋の端を行ったり来たりしている。止まることなく、それを四回ほど繰り返すと、ガツンッ、とロウテーブルに脛を思いっきりぶつけた。 「痛ッ」  蹲る風香。しかし、その衝撃でテーブルの上の紙がヒラヒラと彼女の足元に落ちて来た。それが昨夜はまでは無かったものと気付いた風香は、急いで裏返った紙を表に返した。  『風香へ』  それは同居人から私に宛てられた手紙だった。メモ用紙を千切った小さな紙。そこには細やかに不在の理由を書いていた。 『体調が良くなイので、近くのクリニックに行って来ます。くれぐれも寝坊はシな いように』  風香は安堵の息を漏らした。とんだ取り越し苦労だった様だ。安心した風香は鼻歌を歌って、洗面所に戻った。なお、床にぶちまけた布団や趣味の悪いぬいぐるみはそのままだ。本人が帰ってきたら、元に戻せばいいだろう。 「あれ? でも、」  思い出した様に風香の鼻歌はぴたりと止まった。そうすると、時計の針の音も小鳥の歌声も消えた。まるで、何もない牢屋の様な空間に閉じ込められたような気分になった。 「クリニックの受付開始時間って……」  漠然として全容のつかめない不安が掠る様に通り過ぎて行く。銃弾を掠めたようさ危機感が一瞬だけ全身を震わせた。本当に、一瞬。なので、恐らく、勘違いだ。 「よしっ、そろそろ行かなきゃ」  朝食を摂り終えて、風香は机の上に置いた鞄を取る。その時再びメモ用紙が軽く宙を待って地面に落ちた。そのままでも良かったが、何となく気になって拾った。そうして、豆粒の様な小さな字を、見て言った。 「雅乃って、こんなに字下手だったっけ?」
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