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二日目 偽の者 その2
朝のホームルームから四限目の終わりのチャイムが鳴るまで、存外早く過ぎていった。それだけ、面白いと感じる瞬間が少なかったのだと気付いて風香は心から嫌気がさした。授業の終わりと始まりのチャイムだけが、遠く見つめる風香の瞳に色を戻す。それも束の間。何もすることが無い事実に気付くと、再び眼の焦点がぼやける始める。
風香は机に頬杖をついて感情の無い瞳を淑やかに喋るクラスのお嬢様達に向けている。およそ人に向けるものではなく本来昆虫等に向ける無機的な眼差し。
思えば、橘風香という人格は舘内雅乃という存在が居るからこそ成り立っていて、今し方孤独になった彼女には人格以前に人と関わり会う機会すら無い。話す機会が乏しいと人間は自己を見失ってしまう生き物だ。
私は今、橘 風香はなぜ生きているのか、なんて事を考えている。一ピースをなくしたパズルのように未完成な存在が今の私を形容するのに最も近いだろう。
パズル。そう、まさに私はパズルだ。
人によって形作られて、他のピースが無ければ完成と言われない。そうして、崩そうと思えばすぐに崩されてしまう。これに該当するのは、パズルか欠陥品の人間だけだ。
「お昼どうしよ」
橘風香には雅乃とピヨちゃん以外にまともに会話できる相手が居ない。ここ一年で友人と言える程の付き合いは、雅乃くらいしかしていない。風香は元々外交的な性格とは言えない。それは自身がいわゆる、箱入り娘であることが原因だと本人も自覚している。友人という存在が初めて出来たのは、この学園に来てからのこと。故に友人の作り方など分からず、形成された輪の中にどの様に入り込めばいいかなど、理解できるはずが無かった。
「……みんな誰かしらと食べてるのよね」
周囲を見渡した限り、教室は専門の料理人が作ったらしい弁当を机の上に乗せて上品な口調で話し合う者たちが場を占めている。私の様な除け者は早々に出ていった方が良さそうな空気。
勿論それは彼女の後ろ向きな考えが生み出した偽りの空気なのだが、橘風香にはそれを正確に感じ取ることができないのだった。
軽く項垂れて風香は教室の扉に手をかける。力無くドアを開いた。すると、聞き慣れた声が目の前から聞こえて来た。
「何処に行くの、風香?」
「み、雅乃?!」
そこには葡萄の様な髪を垂らして、白い布に包まれた体躯は耽美な輪郭をなぞっている、淡い色の教室に何気ない様子で溶け込む舘内 雅乃が居た。
【本当に?】
「お昼、食べないの?」
突然の出来事に脳が追い付かない。よくわからない脱力感が全身を襲う。恐らく雅乃と会えた安心感から全身が弛緩しただけだろう。でも、何故だろう。冷たい汗が背中を伝っている。軽い不快感を脳のどこかで覚えたような。
まるで凶器を片手に持った殺人鬼と対峙しているようだ。
「風香? 貴方大丈夫?」
顔面蒼白な風香に対して、心配するように顔を覗き込む雅乃。これでは本来の立場が逆転している。
「う、うん。雅乃こそ、もう平気なの?」
「え? 何が?」
「…………今朝クリニックに行ったんでしょ?」
「……………………え」
消え入りそうな声が聞こえた。風香は鳥の鳴き声だろうかと思って、特に気にしなかった。雅乃は俯いて表情を隠した。
「行ったわよ。もちろん」
訝しむ風香の視線を無視するように振り返り、廊下を歩き出す。それに付き従う様にして風香は彼女の後ろに付く。
「お昼食べに行きましょ。早くしないと寮母さんに急かされながら食べる羽目になるわ」
「雅乃なら、その心配はいらなそうだけど」
「急いで食べると、身体に悪いでしょう?」
少女は今日半日失っていた感情を取り戻す様にして、親友の腕に抱き着いた。
「な、なによ…………」
「別に意味は無いけど、何となく」
【こうでもしないと、いつ殺されるか分からないから】
「……………………っ」
昨日の朝からまるで、私の声じゃないような声が脳に響く。特段痛みが生じる訳では無いが、偏頭痛の様に定期的に響く誰かの声が、まるで私を内側から乗っ取ろうとしているようだ。
幻聴だと信じたい。
一一一一一一一一
黄昏時に、毎日のように空き教室に通う少女が居る。特段やましいことをしている訳では無く、言ってしまえば自習をしているのだろう。この一年間の間、休むことなく毎日。まさに勤勉な彼女。しかし、それはその分野にだけ顕著に現れるだけで、彼女の勉学の成績は〝平凡〟の二文字で表せる。
彼女は教科書を開いて机に向かって微動だにしている訳では無い。むしろ、そぞろ歩いて、たまに窓の外を見つめている。どこが勤勉と言えるのか、なんて、魔術師ではないまさしく〝平々凡々〟な人間からしたら思われても仕方がない。
教室の端に寄せられた机と椅子が埃を被らずに綺麗に並べられている。空き教室を掃除する業者は手配されていないようで、ここに彼女が毎日通わなかったら埃は机の上に溜まったままだっただろう。
彼女を中心として小さな渦が出来ている。それは竜巻のように、漂う人形を動かし、あまつさえ散らばった埃すら勢いのままゴミ箱に逃げ込む。まさに大道芸顔負けの技の数々だが、これには種も仕掛けも無いので見物料を要求することは残念ながら出来ない。
今日も今日とて、私は魔術の練習に励んでいる。いずれ来るチャンスを逃さない為に。少しでも前に進む。それが〝平凡〟な私に唯一出来る抵抗なのだから。
風がカーテンを揺らす。机と椅子が無秩序に震える。ドアがガタガタと悲鳴をあげている。この一帯の空間が歪んでいる。橘 風香はまだそれに気が付かずに、窓の外に見える顔の見えない人間が行き交う姿を眺めている。
その揺らめきは徐々に大きくなる。蛇の様に巻き始めた風はやがて万象を飲み込まんとする嵐に変化する。
「ごほっ!?」
身体の内から込み上げるものを堪えることが出来ずに風香は口を押えてその場に膝を突いた。
薄暗くなり始めた教室で少女は喀血した。ポタポタと口から漏れ出る血を押える。
「うそ。そんなに魔術使ったっけ?」
悔しそうに少女は独り言ちる。遣り切れない思いを抱いて立ち上がる。
「まぁ、この程度なら、平気かな」
口を拭えば、それ以上に血が出ることは無かった。血が出るほどやったのは久しぶりの感覚だ。館に居た頃は一度や二度の喀血など気にするにも値しなかったが、随分と弱い体になってしまった。まぁ、鈍った体に鞭を打つためにこうして毎日練習をしているのだが。
「え?」
廊下から視線の様なものを感じた。ガタッと一回ドアが揺れる音が教室に響いた。風香はすぐに走ってドアを開け、長い廊下を見渡した。
右にも左にも人影は無い。数秒の警戒心はただの杞憂だったらしい。もし人が居たとしても、逃げたのなら廊下を走る音が聞こえる筈だ。
風香は安堵し、念の為これから鍵はキチンと掛けることを頭の中の〝覚えておくリスト〟に無理矢理詰め込んだ。
二二二二二二二二
「ふぅ………………」
顔に少しだけ出た焦燥感を袖で拭って払う。焦りなど優雅さから遠く離れている。
「結構、感が鋭いのね彼女」
紅い髪を無造作に壁に付けるようにして垂らしている彼女。両目には夜空に輝く星。まるでトパーズのような宝石めいた輝きを保管する。
「詰め込まれてるのね。彼女も」
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