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一話
これは古代中国に酷似した異世界の恋物語である…。
わたくしは元は天界の天女だった。天帝のお妃ー后妃様付きの女官でもある。
后妃様は璋善(しょうぜん)様といい、穏やかで優しい方。外見もたおやかでお美しい。
そんな璋善様の命でわたくしは地上にあるという美味な桃、白桃を採りに降りた。白桃を育てているという老婆の居所は天界の水鏡で確認済みだ。その場所に降り立ち、老婆に頼んで白桃をもらったまではよかった。が、老婆はこの白桃をやる代わりに自分の息子と結婚しろと迫ってくる。
「そんなことを言われても困ります!」
「何を言うのやら。この白桃は偉い仙人様に譲ってもらった大事な物なんだ。それの実をやるのだからうちの息子の相手くらいはしてもらわないとね」
「お婆様。それ以外のお礼はいくらでもしますから。だから、息子さんの相手をするのだけは勘弁してください」
わたくしが必死で説得しようとすると老婆はふんと鼻白んだ。
「…この白桃はね。一個でも食べればたちまち病や傷を治しちまう。息子と丹精こめて世話したんだ。天女様だか何か知らんが。簡単に譲るわけにもいかんのさ」
「わかりました。白桃を后妃様にお届けしたらまたこちらに参ります。その後でしたら、息子さんの相手とやらもしましょう」
「ふうん。わかった。約束だよ」
わたくしは頷いた。そうして老婆が持たせてくれた白桃の竹かごを手に持って羽衣を翻す。天を飛んで璋善様のいる宮ー天界に戻ったのだった。
天界に戻ると璋善様の宮に歩いて向かう。きらびやかな朱塗りの柱や瓦葺きの屋根、天女や飛仙の絵が描かれた壁は優美である。いくつかの廊下を通って璋善様の居室に着いた。
「后妃様。女官の珠嬉(しゅき)です。白桃をお届けに参りました」
「あら。珠嬉、戻ってきたのね」
長く艶やかな黒髪をさらりと揺らして璋善様が微笑みながら出迎えた。他の女官達も無事に戻ったわたくしを見て安堵したように笑う。
「はい。ご所望の白桃を地上のお婆様に譲ってもらいました。こちらがそうです」
「美味しそうな白桃ね。では峰雲。水で洗ってきて。珠嬉、後で皮を剥いて」
「わかりました。小刀を取ってきますね」
頷いて璋善様の御前を辞したのだった。
峰雲さんが白桃を天界の井戸水で洗い、わたくしが小刀で皮を剥き、種も取り除く。八等分にして皿に盛り付けた。手についた汁を麻布で拭き取り璋善様に勧めた。
「后妃様。切り分ける事ができました。お召し上がりください」
「ありがとう。ではいただくわね」
璋善様はそう言って切り分けた白桃を手に取る。一つを口に運んで咀嚼した。こくりと飲み込んだ。
「うん。やっぱりすごく美味しいわ。甘いし蕩けるようね」
「お気に召しましたか?」
「ええ。やはり地上にまで採りに行って正解だったわね。ご苦労だったわ、珠嬉」
璋善様はそう言って満面の笑みを浮かべた。白桃を本当に気に入ったようだ。よかったと胸を撫で下ろした。
だが、わたくしはすぐに老婆との約束を思い出した。
「…あの。璋善様。ちょっとよろしいでしょうか?」
小声で主を名前で呼んだ。璋善様はすぐに何かあると気づいたらしい。周りの女官たちに素早く目配せをする。
女官たちは心得たとばかりにわたくしと璋善様を置いて居室を出ていく。
人の気配が無くなったのを皮切りに璋善様は居住まいを正した。
「で。珠嬉、女官たちを退がらせたけど。どうしたの?」
「あの。実は地上で白桃を譲ってもらった時にちょっと押し問答がありまして」
わたくしは璋善様に老婆とのやり取りや約束の事などを順を追って説明した。すると璋善様は眉間を揉んで大きなため息をつく。
「…まさか、そなたにそんなことを持ち掛けてくるなんて。とんでもない婆様ね」
「けど。白桃をこちらに届けたらお婆様の息子さんの相手をしないといけないんです。本当は璋善様や皆には黙って行くつもりだったんですけど」
「黙って行くのは当然ながら駄目よ。せめてあたくしか女官長には言っていってちょうだい。でないと宮が大騒ぎになるわ」
「わかりました。璋善様か峰雲さんにはお知らせしておいてから地上に行きます」
「そうしてちょうだい。でないと天帝様にも言わないといけないから」
璋善様が言うとわたくしは深々と礼をした。そうしてから天界から地上に降りたのだった。
地上に降りて例の老婆の元に行った。天界では半日も経っていないが地上では幾日も過ぎていたらしい。たわわに実っていた白桃が地面に落ちていた。
それをよけて歩いた。老婆はおらず、人影がない。仕方なく白桃の木から離れた。
しばらく行くと小さなあばら家がある。そのあばら家の引き戸が不意に開かれた。中から老婆ではなく背の高い青年が出てくる。赤く燃えるような髪に翡翠の瞳が目を引くなかなかの美男だ。
わたくしは袖で口元を隠した。青年はわたくしに気づいたらしく驚きのあまり、固まった。翡翠の瞳を見開いている。
「…あんた。うちの母さんに白桃を譲ってもらった天女様か?」
掠れているが低い声にわたくしは息を飲んだ。今、母さんといった?
「あの。あなたはもしかして。お婆様の息子さん?」
「そうだ。母さんは今は畑に行ってていない。天女様、何か用があるのか。それで降りてきたのか?」
青年にわたくしは頷いた。「はい。その、お婆様に息子さんの相手をするように頼まれまして。約束をしたので降りてきました」
「そうか。すまないな、母さんが無理を言って」
「あら。謝る必要はありませんよ。お話相手か舞などをお見せするくらいはやぶさかではないので」
わたくしが微笑むと青年は苦笑した。
「それでも天女様には謝らないとな。俺は母さんがそんな無理を言っているとは知らなかったんだ。たく、天女様は俺ら地上の人間とは違って無垢な方々なのに。無茶を言うぜ」
「あの…」
「ああ。独り言だ。気にしないでくれ。そうだな、天女様。まずは名を教えてくれ」
「珠嬉といいます」
「俺は爽茗(そうめい)。珠嬉さん、立ち話も何だから。中に入ってくれ」
わたくしは頷いて爽茗に促されるがままにあばら家の中に入った。
爽茗はわたくしに茶を淹れてくれた。渋味はあるが爽やかな香りのお茶は緑茶というものらしい。東方の島国特産だと爽茗は教えてくれる。
「珠嬉さん。天界ってどんな所なんだ?」
「そうね。天界は美しい所よ。でも地上と変わらない所もあるかしら」
「へえ。俺は天女様達って霞を食べて生きてると思ってたんだが。実際は違うのか?」
「違うわ。わたくし達も地上の人達と同じように水を飲むしご飯を食べるわ。天帝様や后妃様はまた違うでしょうけど」
爽茗の質問に一つずつ答えていく。彼は好奇心が旺盛で次々と聞いてくる。わたくしは失礼のない範囲で説明をした。
「へえ。天界と地上もそう変わらないんだな。珠嬉さん。教えてくれてありがとうよ」
「どういたしまして。あ、もう夕方ね。わたくしは帰るわ」
「ああ。今日は楽しかった。多分、一生忘れないだろうな」
「爽茗さん?」
わたくしが彼の名を呼ぶ。爽茗は悲しげな顔になる。
「珠嬉さん。俺は…」
爽茗はいいよどむとわたくしの手をおもむろに取った。ぎゅっと握られる。
「っ。爽茗さん?!」
「すまない。珠嬉さん、俺のせいだ」
「どういう事?」
「…俺。昔に聞いた事があったんだ。俺の父さんは天帝様だって。母さんは人間なんだが。たまたま、白桃を天帝様にいただいた。が、見返りに母さんは我が身を差し出した。そうして生まれたのが俺だった」
わたくしはあまりの話に愕然となる。爽茗が天帝様の息子って。だが、当代の天帝様は正妃の璋善様だけを寵愛なさっていて他の女人の付け入る余地がない。
としたら先代の天帝様だろうか?
わたくしは思考を巡らせた。爽茗は握っていた手を離した。
「珠嬉さん。もう行きな。母さんが帰ってくる」
「わかった。お茶をありがとう。おいしかったわ」
「ああ。さようなら」
わたくしもさようならと言って天界に羽衣を翻して飛んだ。
あれから、わたくしは璋善様と天帝様に老婆と爽茗の話をした。そしたらやはり、天帝様は爽茗の事をご存知だった。
「聞いてしまったのか。そうだ、父上は一度だけ地上の女人と恋仲になったことがある。その見返りに若返りの桃を授け、父上は女人の元を去った。まさか、子が生まれていたとはな」
天帝様はふうとため息をつく。璋善様も困った表情をした。
「申し訳ありません」
「珠嬉が謝る事はない。が、まさか爽茗が生きていたとはな。地上の女人と恋仲になったのは五十年も昔の話だ。爽茗は既に結婚して子も成人していてもおかしくないはずだが」
「そうですね。先代の天帝様が地上に降りたのが五十年前なのは確かですわ。お婆殿ー母君とて七十歳を越えていてもおかしくありません」
璋善様が言う言葉を聞いてわたくしは固まった。爽茗が五十を越えたおじさん?けど会った時の彼はまだ若い青年と見まがう外見だった。
「…珠嬉。混乱しているようだね。多分、父上が授けた白桃の力だろう。それのせいで爽茗の体内に流れる時間が止まってしまっている」
「そうだったのですね。教えてくださりありがとうございました」
「いや。いいよ。むしろ、我が天界の面倒事に巻き込んですまなかった」
天帝様は苦笑しながらわたくしに謝った。わたくしは首を突っ込んだのは自分だからと言って取り合わずにいた。
数ヶ月後、わたくしは爽茗と久しぶりに会った。天帝様は爽茗と母君が持つ白桃の木を取り戻すようにお命じになった。仕方なく、わたくしは地上に降りた。
「お久しぶりですね。爽茗さん」
「ああ。久しぶりだな。珠嬉さん」
当たり前のようにわたくし達は挨拶を交わした。
「…爽茗さん。ごめんなさい。庭にある白桃の木は今日からなくなります」
「どういう事だ?」
「天帝様の命により若返りの桃をわたくしが抜きに来ました。でも、このまま抜くことはできないので。若返りの力だけを取り去ります」
「そうか。わかった、確かに若返りの力がある白桃を盗みに来る奴もいるにはいるからな。珠嬉さん、普通の木に戻してくれるんだったら礼はするよ」
爽茗の言葉にわたくしは頷いた。白桃の木に近づいて両手をかざす。小声で呪いを唱える。
わたくしの中にじんわりと甘い芳香がある気が入り込んで消えた。しばらくすると白桃の木が萎れて枯れ果てた。それを見届けるとわたくしはふわりと浮かび、天を飛んだ。爽茗がそれを悲しげに見つめていたのは気づかなかった。
白桃の木が枯れて半年後に爽茗の母が亡くなった。爽茗も姿を消し、わたくしは二人を忘れかけていた。
だが、璋善様の宮にある日に一人の来訪者が現れた。燃えるような赤毛に翡翠の綺麗な瞳の美男ー爽茗が牡丹の花が咲き乱れる中佇んでいる。
「よう。珠嬉さん」
「なっ。爽茗さん?!」
わたくしが驚きのあまり大声を出すと爽茗さんは面白そうに笑った。
「あんたが忘れられなくて。父さんの力を借りて天界に来たんだ」
そう言ってわたくしとの距離を一気に詰めた。爽茗さんはわたくしをふわりと抱きしめる。ほのかな爽やかな香りと温かくて逞しい腕。わたくしは知らない間に泣いてしまっていた。
「泣くなよ。あんたが泣いたら俺まで悲しくなる」
「違うわ。嬉しくて泣いてるの」
「そっか。俺も嬉しいよ。やっとあんたに会えた」
二人して再会を喜びながら抱き合っていた。
そうして、爽茗は天界の公子として認められた。わたくしは公子妃として迎えられる。後に爽茗は天帝となりわたくしも后妃になって彼を永きに渡り支えるのだが。それはまた別の話であった。
終わり
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