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暗闇の中で、幻燈機の光ばかりが眩しい。
白いスクリーンには『道化人形ニ寄ス』と黒い題名が映し出されている。
「モノには記憶が宿る、と申します。その記憶を硝子板に焼き付け、投影してお見せするのが、当幻燈館の生業にございます」
ジーッという音が耳につく。
「まあ、店主さんは弁士もなさるの?」
藤袴の君は涼やかな声で問う。
「いえ、弁士はこちらの『少之輔』が勤めます」
清香は、幻燈機の傍らに座る唐子人形を示した。
「お……人形?」
「機械人形にございます」
狐につままれたような藤袴の君を見ると同情心が湧いてくるが、瑞香は頭を振った。
「始めましょうお姉様。長くなるとランプが熱を持つわ。少ちゃんが語れなくなっちゃう」
清香は頷き、硝子フィルムをかしゃんと差し込んだ。
『時は大正十年三月弥生の日……』
機械人形の口から少年の声が流れる。流暢な語りに合わせ、かしゃん、かしゃんとフィルムを抜き差しする音が響いた。
◇ ◇ ◇
暗幕を開けると、目が光りに馴染むまで時間がかかる。
お高祖頭巾もそのままに、目を押さえている藤袴の君へ、清香はそっと声をかけた。
「ご納得いただける内容でしたろうか」
「ええ……ええ。けれど」
藤袴の君は顔を上げて、戸惑う表情を見せた。
「わたくし、あんな風に兄の後ろに隠れてばかりいたかしら。それと、語りの中で幼き人小さき人と何度もいわれましたのはどういう……」
「まあ、店に戻ってお話しましょう。おタキさんもじきに目覚めます」
店に戻ってみれば、まだ外は明るい。来店してからほんの半時も経ってはいないのだ。
「お茶をお召しなさいませ」
瑞香が紅茶を運んだ。茶器と銀の盆も、店の古道具の中に眠っていたものだ。
「それで、この道化人形についても調べたのですが」
清香は棒の先で愛らしく回る人形を示し、言いにくそうに言った。
「マロットという仏蘭西のお人形、と申しましょうか玩具と申しましょうか。赤子をあやすのに使う、ようするにがらがらでございますね」
「赤子、ですって!」
藤袴の君が似合わぬ大声をあげ、おタキさんがうーんと唸った。
「そう、そうなの」
うつむいていたお高祖頭巾がはらりと解かれた。束髪の上の段に大きなリボン、下の段に紫の細いリボンを結った、女学生らしい髪型がそこに現われた。
「わたくしね、もうすぐ嫁ぐことになっていますの。父が決めたお話で、勿体ないほどの良いご縁で。でも、わたくしにはどうしても忘れられない人がおりましたの」
「それが、このマロットを寄越した殿方ですか」
「そう」
くす、と笑って、藤袴の君は顔を上げた。想像以上に幼い顔立ちのその人は、頂きますわね、と言って白いティーカップに唇をつけた。
(私とそんなに年齢が変わらないのに、もうご縁談? 喜ぶべきことだけど、おめでたいことなんだけど)
幼な顔の藤袴の君を見やりながら、瑞香の心は少し痛んだ。
「昨年の誕生日に頂いたんですわ。あの方から見れば、わたくしは幼い、本当に赤ん坊のように幼い子どもだったのですね」
くすくす、くすくすと口元を押さえて泣くように笑っていた藤袴の君は、突然、真剣な声になった。
「冗談ではないわ」
飲み干したカップをテーブルに戻すと、きっぱりと顔を上げる。
「あの方が家にいらしても恥ずかしくて声もかけられなかったわたくしは、確かに子どもでした。けれど、がらがらであやされるような幼な子ではないわ!」
その人に似合わぬ声に驚いてか、おタキさんが目を覚まし、眠ってしまったことを詫びてうろたえた。その間にも、藤袴の君は慣れた手つきで再びお高祖頭巾を被る。
「いいのよ、おタキさん。我が儘言ってごめんなさいね。帰りましょう。そしてお父様に縁談を進めていただきましょう」
「お嬢様、まあ、ではやっとお決めになったンですね」
おタキさんは自分が眠っていた間に起こったことも知らず、はしゃいだ声をあげた。
「ええ。店主さんにも無理を言ったのよ。多めにお礼を差し上げてね」
「でも、あのう」
瑞香は声をかけすにいられなかった。
「貴女はそれで良いの? 卒業も待たずに他所のお家に嫁いで行くなんて、怖くはないの?」
藤袴の君は目を大きく開いて瑞香を見、微笑んで答えた。
「ご心配ありがとう。ええ、とても怖いわ。でもね」
そして外の光にきりりと顔を向けて言った。
「わたくしはもう『甲女の藤袴』ではいられないのですから。知らない世界に怖じて後ろに退くことなど、許されませんの」
「これ、置いていっちゃったねえ」
清香はマロットを所在なげに振った。
「一応お返ししようとしたのよ。でももう要らないんですって。よろしければ少之輔さんにって。良い弁士さんでしたからお礼にって仰ってたけど」
「少ちゃんに友達をくれたってか。お前さん、うちの子になるかい?」
道化のマロット人形が小首を傾げている。
「赤子じゃない、か」
紫のお高祖頭巾の下から現われた、怒りとも哀しみともつかない素顔を、瑞香は思い出していた。お嬢様にはお嬢様の苦しみがあるようだ。あの幼な顔のままで、あの人は自分の道に向かうしかないのだろう。
「うぉぉっ」
清香の変な叫びで、感傷がすっ飛んだ。指さす先には、さっきのお高祖頭巾が置いていった支払いの分厚い封筒がある。
「まったく金持ちってのはポンポンと大金を……まあいいや、瑞香、風明堂いくよ。しょこらぁたでもカステイラでも食べ放題だ!」
姉様ったら待って、という瑞香の声も聞かず、清香が放り投げた襷が宙を舞う。
店に残されたマロットが、リロリンと音を立てた。
(この章終わり)
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