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少女の鼻の先にソフトクリームがついた。小さな鼻に白い蝶がとまったみたいだ。
「ほら、ここ、ついてる」
僕が、鼻をつまむようにやさしくぬぐってやると、彼女は笑う。さっきまでの不機嫌そうな表情は一つも残っていなくて、顔全体で笑っているのだった。
ようやく彼女の笑顔を見ることができて、僕は心底、ほっとした。
「ねえ、そうだ、幼稚園はどう? 楽しい? どんなことしてるの?」
訊きながら、歩き出そうとすると、彼女がついてこない。振り返れば、ソフトクリームを両手で握りしめたまま、また白い山に顔をうずめようとしている。溶けはじめたソフトクリームがコーンや手をつたい、白いしずくになって彼女の足元に落ちている。
「たべてから、あるくから」
と、彼女は大まじめな顔をして言った。彼女には彼女の速度があるのだ。
「ごめんね」
僕はしゃがみ込み、彼女が口を開ける瞬間、狂暴になる顔や、ソフトクリームの甘さに何度も驚くしぐさを興味深くながめた。もう少しで食べ終わるというところであきてしまったのか、ふいに食べ進めるのをやめ、足元にたまった白いしずくを指さし、「ねえ、アリが、たくさんくるかな」と僕と目を合わせた。
「そうだね、たくさん来るかも。ねえ、海の方に行ってみようよ」
僕たちはやっと歩き出して、浜を目指した。東京湾に面したこの広い公園は横切るだけで一苦労だった。芝生の中を蛇行して伸びる遊歩道を進んでいく。あちこちにビニールシートを広げた若者や家族連れの姿がある。
「大丈夫? 疲れない?」
「うん、へいき」
そう言って駆け出すから僕もあわててついていく。案外、速くて、「ねえ、足、速いんだね」「あ、うみのにおいがする」彼女が僕に顔を近づけて、言った。彼女の顔に残ったソフトクリームのにおいと、確かに、海水のにおいが風に乗って僕たちに届いている。
「ねえ、うみ、すき?」
「うん、好きだよ」
「わたしはきらい」
「そう、なんだ」
ゆるい傾斜の坂を越えると、水平線が見えた。それから、いくつかのヨットやその向こうにフェリーが行き交う湾が広がり、陽光を浴びて白い光を生んでいる。
「おとうさんのふね、ある?」
「ここには、ないかな」
遠くに見えるフェリー、大型のフェリーのはずだけど、それこそ、アリくらいの大きさに見える。ほとんど止まっているような速度で、ゆっくり、湾を横切ろうとしている。
「でも、お父さんの船、たまに東京湾を通るらしいね。姉ちゃんが……きみのお母さんが言ってたんだけど」
「そうだよ」
ナオちゃんは、ほとんどうなるようにこたえた。
ようやく砂浜が見えてきたと思ったら、ナオちゃんが立ち止まる。僕もあわせて立ち止まって、だから僕たちは、ただ海をながめている。真っ白な日が空にあって、その真下にある海面に白い光をためている。ソフトクリームの溶けたしずくみたいに。
「お父さんに会いたい?」
「わかんない。さんかいくらいしか、あったことないし」
三回? そんなわけない。次に帰ってくるのは一週間後だったはずだし、その前だって、少なくとも、ひと月に一度は帰ってきているはずだった。
でも、わからない。彼女の感じる時間の速度は、彼女にしかわからない。
父親と過ごせない時間がナオちゃんの足元にたまっていく。
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