ソフトクリーム

1/1
前へ
/1ページ
次へ
 少女の鼻の先にソフトクリームがついた。小さな鼻に白い蝶がとまったみたいだ。 「ほら、ここ、ついてる」  僕が、鼻をつまむようにやさしくぬぐってやると、彼女は笑う。さっきまでの不機嫌そうな表情は一つも残っていなくて、顔全体で笑っているのだった。  ようやく彼女の笑顔を見ることができて、僕は心底、ほっとした。 「ねえ、そうだ、幼稚園はどう? 楽しい? どんなことしてるの?」  訊きながら、歩き出そうとすると、彼女がついてこない。振り返れば、ソフトクリームを両手で握りしめたまま、また白い山に顔をうずめようとしている。溶けはじめたソフトクリームがコーンや手をつたい、白いしずくになって彼女の足元に落ちている。 「たべてから、あるくから」  と、彼女は大まじめな顔をして言った。彼女には彼女の速度があるのだ。 「ごめんね」  僕はしゃがみ込み、彼女が口を開ける瞬間、狂暴になる顔や、ソフトクリームの甘さに何度も驚くしぐさを興味深くながめた。もう少しで食べ終わるというところであきてしまったのか、ふいに食べ進めるのをやめ、足元にたまった白いしずくを指さし、「ねえ、アリが、たくさんくるかな」と僕と目を合わせた。 「そうだね、たくさん来るかも。ねえ、海の方に行ってみようよ」  僕たちはやっと歩き出して、浜を目指した。東京湾に面したこの広い公園は横切るだけで一苦労だった。芝生の中を蛇行して伸びる遊歩道を進んでいく。あちこちにビニールシートを広げた若者や家族連れの姿がある。 「大丈夫? 疲れない?」 「うん、へいき」  そう言って駆け出すから僕もあわててついていく。案外、速くて、「ねえ、足、速いんだね」「あ、うみのにおいがする」彼女が僕に顔を近づけて、言った。彼女の顔に残ったソフトクリームのにおいと、確かに、海水のにおいが風に乗って僕たちに届いている。 「ねえ、うみ、すき?」 「うん、好きだよ」 「わたしはきらい」 「そう、なんだ」  ゆるい傾斜の坂を越えると、水平線が見えた。それから、いくつかのヨットやその向こうにフェリーが行き交う湾が広がり、陽光を浴びて白い光を生んでいる。 「おとうさんのふね、ある?」 「ここには、ないかな」  遠くに見えるフェリー、大型のフェリーのはずだけど、それこそ、アリくらいの大きさに見える。ほとんど止まっているような速度で、ゆっくり、湾を横切ろうとしている。 「でも、お父さんの船、たまに東京湾を通るらしいね。姉ちゃんが……きみのお母さんが言ってたんだけど」 「そうだよ」  ナオちゃんは、ほとんどうなるようにこたえた。  ようやく砂浜が見えてきたと思ったら、ナオちゃんが立ち止まる。僕もあわせて立ち止まって、だから僕たちは、ただ海をながめている。真っ白な日が空にあって、その真下にある海面に白い光をためている。ソフトクリームの溶けたしずくみたいに。 「お父さんに会いたい?」 「わかんない。さんかいくらいしか、あったことないし」  三回? そんなわけない。次に帰ってくるのは一週間後だったはずだし、その前だって、少なくとも、ひと月に一度は帰ってきているはずだった。  でも、わからない。彼女の感じる時間の速度は、彼女にしかわからない。  父親と過ごせない時間がナオちゃんの足元にたまっていく。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加