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「今の話でようやくあなたが部屋に置いてる妙な物体の正体が分かったわ。あれ、玩具なのね?」
そう言うと妻は眉根を寄せ、私を見ながらお茶を啜った。
「あれは卵だよ。ただ、ずっと孵らない。何者にもならない、落ちこぼれの卵さ」
私は結局その後も特に当たり障りのない、平穏無事といった人生を歩んでいる。周囲と同じように地元の高校を出て、地方の、一流とはいわないが中流の大学に入り、ささやかなキャンパスライフを楽しみ、みんなの愚痴を聞きながら就職活動をして、東京にある小さな文具会社の社員となった。学生や学校の先生、事務のおばさんたちを相手に、営業と商品開発の日々を送っている。
面白みのない人生かも知れない。それでも妻を得て、小さな家庭を持った。そのことに不満はない。
ただ何も孵らなかった卵が、いつまでも心の隅っこに転がっているだけだ。
と、テレビ画面に突然、顎髭の逞しいむさ苦しい男が映り、妻は顔を顰めた。だがその目元の優しさと口を開けてから噴射するような笑い方、何よりテロップに表示された名前に、私は別の意味で顔を歪めた。
「ああ。この人あれね。なんか賞もらったんでしょ? ハリウッド映画の特殊技術の監督さんで」
随分と横に大きくなり、腹も三段くらいに膨らんでいたけれど、それは紛れもなく彼だった。彼はずっと嘘をつき続けていたのだ。今もその嘘を本物に見せることを仕事にし、それが世界から評価されている。なんてことだ。彼の「かいじゅうの卵」はちゃんと孵ったんじゃないか。
テレビ画面の後ろの方には沢山の怪獣の模型に混ざって、あのカラフルな玩具の卵が幾つも並んでいた。
『ああ、これですか。これね、かいじゅうの卵なんです。温めているといつか生まれるんですよ。嘘だと思ったでしょう? でも生まれてみるまではそれが嘘かどうかなんて分からない。嘘と本当の違いって何です? 嘘って色々悪い風に言われることが多いですが、僕はそんな風に思っちゃいません。嘘って誰かを楽しくさせるものなんですよ。本当や現実って既にそこにあって、どうしようもできないものでしょ。でも嘘ってね人間が作るものなんですよ。作らないと嘘にはならない。そう考えると嘘っていうのはとても人間らしいと思いませんか?』
画面いっぱいに広がったむさ苦しい笑い顔と声は、けれどあの頃よりずっと自然に見えた。嘘じゃない。本当の笑顔だ。
「ねえ、あなた」
「何だ?」
「笑ってる」
「いや、そりゃあ笑うことくらいするよ」
「でもあなた知ってる? いつもどこか冷めた目で、口元だけを歪めて、へへっていう笑い方しかしないの。でも今、本当に楽しそうに笑ってた」
「そうか?」
妻からそんな風に見られていたとは思わなかったが、私も少しは成長した、ということだろう。
自分の部屋に戻り、本棚の一番上のスペースにちょこんと収まっている「かいじゅうの卵」を手にする。それは触れると仄かに温かく感じられた。結局何で作られていたのかを調べるようなこともなく、それでも捨てることもできずにずっと私の人生のポケットに入れておいたものだ。
不意に、それが割れた。音も何もしなかったが、パキリと、まるで木の枝でも折れるようにして半分に分かれてしまった。けれど当然、中には何も入っていない。空洞すらない。石膏か何かで固めた玩具の卵だ。
「ねえ。あなた」
ドアの向こうで妻が私を呼んだ。その声がいつもと少し様子が違う気がしたので、私は割れた卵を棚に戻すと「どうした?」すぐに声を返してドアを開ける。そこに立っていた妻の手には妊娠検査薬があった。
「これ、どう思う?」
そう尋ねた妻の目元は、まるであの彼のような子どもっぽい優しい笑みに満ちていた。(了)
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