125人が本棚に入れています
本棚に追加
黒い、生身の眼
涙も零さず、声も掛けず、ただ茫と兄を見降ろしている私の傍らへ、刑務官の方々が添うように歩み寄り、語りかけてくれました。
自分は、十数年この職務に就いてきて、同じ局面に何度も立ち会ってきた。
だが、この若さで、己れの罪と恐怖からみだりに取り乱しもせず、科された本当に重い責を克服して、
ここまで完璧に果たせた人間は、いまだかつて、見たことがない。
このほそい身体のなかに、これ程の強い魂を培っていたのかと。
ひとの持つつよさ。芯の強さのきわみ。
天川はそれを、成すべき最たる瞬間に、我々に示してくれた。
ここにいる、誰よりも本当につよかった。
立派だった。 お兄さんは、本当に立派だった。
正直に、ひとの醜さや業ばかりを見続けて、背けたくなることが何度もある。
お兄さんは、確かに重い罪を犯して、最も重い刑に懸けられて、ここへやって来た。
ひとは、そのひとにしか果たせない、果たさなければならない使命や役目を負い、辿る道があるのだと思う。
そしてそれは、出来るように見えて、誰もが容易く出来るものではない。
それを探すために、ひとは生き続けているのだといえる。
お兄さんは、いのちを賭して、罪を償い、
自分にそれを、教えてくれた。
そのいのちを、自分は繋げて、ひとや、お兄さんと同じかけがえのない生命に、向き合っていかなければならない。
絶対に忘れないし、忘れたくない。
自分はひととして、お兄さんをこころから敬服するし、これからもずっと、尊敬し続ける。
有難うございます。
どの方も、兄にこころを深く砕いて、言葉をしぼられているのがよく判りました。
身なりから、きっと上層部の方も多数おられて、殆どの方が熱く充血した眼を堪えていた。
こころの震えが、言葉に現れても隠そうともせず、際限まで歩み寄って、私に伝えようとしてくれていた。
それは、良かった。
罪を犯した者にとって、それは本当に有り難く、光栄以外のほかにない受け止めであったと思います。
兄も、社会に汚点を撒いたことを悔いていたし、ここに入ったことで贖罪の念を確実に養い、
ここにいる看守方に、その務めを果たせた姿、最期を看取っていただけたことは、望まれる最上の『救済』のかたちをとったのだと。
大罪を犯した身でありながら、与えられる際ほどの恩恵を受けて、兄も常に感謝していたし、その表情はいつも、穏やかでした。
導いて下さった皆さま、『先生』方の前だからこそ、兄は、発てたのだと思います。
唇から出る言葉に偽りはない。
本当に、そう思うし、『問い』への解答、感想であるなら、全て"正答"だ。
だけど。
まるで、他人事のようだと、そう思える呟かれた言葉の羅列を、空に見上げるもうひとりの自分の冷えた視線が、
昏い胸のうちへ、畔から闇黒の底へと、緩やかに沈んでいくようだった。
責務、と呼べるほどの仕事ですから、解っています。
為すべき人間がいなければ、この社会の治安、安寧は維持されない。
極めて重大、己れにも強く律しを求められ、遂行の意思はとても量り知れず、熾烈、という言葉を冠するのに相違ない。
ひとでありながら、同じひとの生命と、相対しなければならないのだから。
だから、解っている。 『仕事』、であるのだから。
だけど、その口で。
兄を、尊い導きの光のように、それ程までにひどく誉め讃えていながらも、
その口で、同じその掌で、
その生命を、無理矢理に引き千切って、
辿っていた道程を、ほのかにでも抱いて、願っていた想いを、希みを、
ひかりの糸を断絶させたのは、間違いなく、 ここに在るひと達だ。
誰よ。
誉めながら。 奪ったのは。
お兄ちゃんを、 して
お兄ちゃんを。
私のお兄ちゃんを、
突き墜としたのは、 一体誰———。
最早兄から目を逸らし、何処か判然としない方向へ、底光りするような眼を隠しながらも射る私の許へ、
翳りのない影が、冴えた空気とともに現れたのです。
「自分が、最後まで同行しました。
情の律せられた、憐れな規則に縛られた身ですが、それを超えない範囲で許される上限までは、
お聞きしたいこと、求められることはどんなことでも、
可能な限りお応えします」
黒い、だのに生気の煌めきにみちて、そのひと自身の、でもあるけど、誰かから受け取ったような、
熱い魂を宿したような眼をしたひとだった。
そのひとは、それまでずっと官服の群れの端に隠れていて、
他の方のように兄を誉め讃えたり、尊い礎のような称し方を一切せず、
ただ私を、その黒い眼で、私と、その背後にいる誰かをも、手に手を携えんとするかのような、
芯に迫る力とつよさで、揺るぎなく見つめていた。
最初のコメントを投稿しよう!