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さくら
「まだ、その当時はお若い方で……。兄より少し、年嵩くらいではないかと……。
とても芯の徹った、つよい眼をされているけど、
圧しつけではない熱いくらいの、温かみを放つようなひとでした」
今し方、別れたばかりで、でももう遠く彼方にいるような、だけどずっと胸に留まり続けるであろう、
別れ際の不遜にも似た独特の笑みを含めた一瞥、左掌のこめられた熱、
振り返らず遠ざかる伸ばされた官服の背筋の残像が、去来する。
まだ、救ってくれるのか。
その時も。この先も、その掌で背を支えてくれるのか。
兄の喪失を回顧する、春の息吹に溶けてしまいそうな淡灰の着物姿の楓の背に、
捕らわれていたと思っていたその薄墨の巨塔が、塀のうちから、俺達を見護るように、なおも厳然と佇んでいる。
詰りたいと思っていた。吐き出してはいけない、この胸に渦巻く底の知れない黒い情動。
行き先は知れない、激しい恨み言。還ることはないのに、その胸を掴んで揺さぶって尽きるほど罵りを浴びせてしまいたいほどの、悔恨。
詰ることも、最早許されていたのかも知れないけれど。
だけど。
そのひとの、眼を見ていたら。
「…………」
きっと、その若い身には、そのひと自身も強烈な葛藤、胸の根幹を揺るがすほどの衝撃、傷みを受けたに違いないのだと、ところどころ蒼白に削がれたような貌のいろから窺えた。
だけど、今はそれをも呑み込み、ここへ遺されたもがく私の魂魄に手と眼差しを添えようと、
規律を重んじる官服の胸襟を開くかのような、その翳りなき眼のうちに、私をおさめている。
それを見ているうちに、黒い情動を宿しながらも、その濃密さが治まっていくのを意識せざるを得ず、私は、目を伏せた。
——このひとは、お兄ちゃんの生命を、 生身の眼とこころで受け止めている。
「これを…………」
不意に、香った。逸らした私の鼻先に。
死を呑み込みような甘やかで蕩ける薫りに囲まれながら、
凛として、楚々とその足許で背を伸ばす、あえかな、奥ゆかしくて旧しいほどの香り。
振り返れば、花開いている。幾輪も。
古来から、誰のこころをも憧憬と郷愁を想い起こさせる、
こころの羞らいにも似て、薄紅にその内奥を染まらせた、
誇らしく全身にその花輪を散りばめる、大ぶりな幹を掌におさめたような、小さなひと枝。
そのひとは、それを手に捧げ持っていた。
「所内の中庭に植わっている、桜です。
天川が、季節を問わず、……親しくしていた者と、よく見上げていました。
今朝、満開を迎えました。……彼は、それが見えると。こころに映し込んで、痕を残さず旅立ったようですが、
きっと、その瞳で見るのを、心待ちにしていたのだと思います。
だから、叶うのなら……。これを手許に携えて、充たされた境地で少しでも、今はどうか、 やすんで欲しい…………」
ふるえていたのかも知れない。
でも、取り零してはならないという指先で、それを受け取った。
振り返る。白い花のなかで眠る兄を。
託されたさくらの枝を掲げて、今もなお夢を見るように瞳を閉じている兄の頬、その隣に、
もし、瞼を開いたなら、その視界のうち白桃の花の顔ばせが一番に映るようにと、
いとしいひとと見る筈だった光景が、今も、永遠に切り取られて、もう決して奪われることはないのだと、
その優しい色彩のなかで、兄は、うつくしい 『はるか』を手に入れたのだと、
それを伝えたくて、願って、繊細に息づく春の息吹きを散らしてしまわないようにと、
そっ、と置いた。
綻んだ。呼吸は、間違いなく途絶えていたのに。
傍らに置いた春の息遣いと、まるでひとつになったような。
常世の白と同化していたのに、頬に、瞼に、唇に。
さながら生命のはにかみにも似た薄紅の彩づきが差して、いつも笑うと潤んで膨れていた涙袋が、ふくとふるえて、
熱が尽きた唇が、微笑みのためにやわらかな曲線に揺れる、そんな像が結んだ気がして、
その脚首を、ずっと苦しめていた罪禍の輪の錠が、ようやく毀されて、
ひとがそう在りたいと願う、しあわせのかたちそのままの、
ひとつの得がたい絵画のような、安らぎ、祝福に満ちたひかりを、施されたような気がしたんです。
「綺麗」
何を、なんてきっと択べない。
黒い髪。黒い瞳。仄かな情の種を浮かべた、白鳥のような肌。
薄桃の桜。桜のように奥ゆかしく、胸にひめた想い。羞らいそのままに、詠んだ歌。
熱く滾っていた情念も、せせらぎのような優しい眼差しも。
生命の、落ちる刹那に瞬いて永続の、閃きのような輝きも。
全部。兄を抱きしめる、全部が綺麗で、
私はそれを、 いつだって知っていたんです。
「綺麗だよ。 お兄ちゃん」
緒がほどけたように、首筋から湧き上がる熱い体液が、その時になって私の両瞳から降り零れました。
「桜、きれいだねえ、」
良かったね。呟くと、傍らの官服のひとの、制帽を目深に被った一礼が掠めて、音もなく離れていく気配がしました。
膝を折って、兄の顔にふれるようにして、ずっとそうしたかったように、兄の頬に頬を寄せて、
私と兄の間にはもう何もない、何も考えなくて良いんだと、
いつまでもそうしていたいように、兄を抱きしめていました。
暫く、ふたりきりでそうさせてくれて、執行から二十四時間は、留め置かなければならないそうで、翌日、丁寧な葬儀をそこで挙げて貰いました。
極刑を受けたひとは、その身体の引き取り手が、殆どないそうですね。
でも、私にはそんな選択肢は、初めから露ほどもありませんでしたので、
幼い頃は私を後ろから抱きしめて抱えてくれていた、総ての澱みから解放され、何もかもまっさらになって、浄らかでささやかな無垢な兄を、今度は私が抱えてあげて、
「家に帰ろう。お兄ちゃん」
一緒に帰ろう。白紅の花弁が舞い降る帰路を、兄の貌にもそれが優しくおりて、それごと家へ連れて帰りました。
もう、私の希むことを遮ろうとするひとは、誰もいませんでした。
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