とお香

1/1
前へ
/101ページ
次へ

とお香

「……どうやって生けていけばいいのかと、考えました」  俺達の傍らで咲く桜は、まさに開宴の頂きに達し、 崩れる気配のない薄桃の天辺を翳していたが、その陰にはかすかにでも、散華の予感を内奥していて、 ときは、確実に歩みの兆しを、ひとから取り払うようなことはしようとしないのだ。 「兄を喪って、半身をもがれるばかりの空虚に陥りましたけど、そのまま、蹲っているのは、嫌でした……。 こいしい、苦しい。兄の人生は、何だったのか。 兄は、幸せだったのか。兄の、生きた意味とは……。 そういった想いに圧し潰れされそうでしたけど、その塞ぎを、兄のだとしてしまうのは、嫌だったんです。 ですから、兄でしたら、私にどうして欲しいのかと。……兄はずっと、自分のことは顧みず私には何の怖れもない『生きる』前提を重ねていたようですから、それをどのように遂げていけば良いのかを、考えました」  楓の瞳に浮かんでいた潤み(ひかり)が、この清楚な桜の香で満たされた大気に、いつしか溶けて放たれているようだった。 「行き到くさきは、どうしても……。——自分の思うまま、希むままに。 重い(しがらみ)が付いては廻りますけど、兄のために、兄の分まで、ではない。きっとそれは、兄は『希んで』はいない。 ただ私の、私の好ましいや愛おしいと想うものに従って、それをただ大事に見つめて、生きていこうと決めたんです」  兄の分も……ではないけど、もう兄も常に道連れに、というのは内緒です、という悪戯じみた微笑みも付け加えて、 「そしてこれは……。ある方から教えて頂いたことでもあります」  そう言って俺を見上げて、また含みのある微笑を瞳に浮かべていたので、思わず問うような視線でただ返す。 「……小さな頃、兄が絵本を真摯に沢山読んで聴かせてくれたので、物語りや文章、『言葉』というものが、昔から好きでした。 高校卒業後は、特にこの国の……。古来からその地に根づいて、言の葉の文化が花開いた場所で、その息吹きやつくり、いにしえの想いというものにふれながら、もっと深く学びたいと思って、 兄も応援してくれましたし、その方面の学術の場へ、進むことが出来ました」  見ているか。きっと、見ているな。  お前を喪っても、打ち拉がれるままでなく、お前の大事な楓さんは、流石はお前のいもうとだな。  前方に見渡すばかりだったそのひかりのなかに、怖れず自らの足で踏み入れることを、叶えたんだから。  上向いた楓のはれやかな顔から、そのひかりの欠片が、こちらにも注いでくるようだった。 「大学で学んだ後は、言葉のゆたかさ、かけがえのなさを、まだ未ぬわかいひとたちに伝えたくて、国語の教員に就くことが出来ました。 子ども達の間や、大学へも周ってみて……。伝える区切りがついたかなと思った時、……昔、言葉やこころを表現するなんて知らなかったひとが、文字や音に託して、ひとにしか出来ない、こころを開け放つおまじないのようなものを、教わったことがありましたけど……。 その、『歌』というもので、今度は私も自分のこころを、素直にひも解いてみたいと思って……、」 「今は、『とお()』という雅号にて、歌人を名乗らせて頂いています」 「……………。——……えっ、」  楓は、素知らぬような表情(かお)を見せて、頬を春風の穏やかな薫りのなかへ吹かせている。 「えっ、あのう……。 ——夏八木、とお香先生ですか…………?」 「はい、夏八木とお香と申します」  ご存知でしたか、というささやかな声音の裏で、糸のような憶えがやがてするすると降りてくるようで、混乱する俺は間の抜けた返事を返すばかりだった。 「ご存知も何も……、」  初めてと彼女と会った時、告げられた名。夏八木。  夏八木とお香といえば、現代短歌という小さな水辺のなかに、新星をおとし煌めきを散りばめるようにして現れた、現代の『歌聖』と謳われる存在だ。  美しい、日本古来の言葉の巧みな使いもさることながら、歌に遠い若者たちのこころを掴む、率直で透明感のある口語の語りかけは、数多くの人たちの情感に落ちて、『歌』というものの洒落、近さを波紋のように拡げたといって相違ない。  字の余りも足らずも、その想念の解放のため寸分の隙なく用意されたかのような、こころを結晶にして閉じ込めたような歌は、万能でありながら誰よりも身近で、 添われて胸を振り返り、仰げばまた違う景色が見えるような、無二で無双の、稀少な瞬間(かけら)を切り取り続けるまさに輝石なのだ。  凄いなあ。こんな歌が詠めたらなあと、新聞や歌界の書籍のみならず、メディアでも目にするたび憧れて、 そういえば、憧れのあまり何度か、とお香が選評を務める公募に恥ずかしげもなく名も伏せないで、房内から応募したことがあると、気まずい記憶を手繰ってそっとその目を(うかが)ったら、 「うふふ」和服の清楚な女性(ひと)は柔和に笑んで、 「……お饅頭の、『もみじ()可愛(かわい)』。 紅葉のような形をちいさな()の手になぞらえて、食べるのを躊躇する、というお歌は、大変あたたかでこころ豊かなものでした」 「あああ……、」 「ですが、私も歌に関しては妥協を許したくなく、中々ご縁を繋げることが出来なくて、……申し訳ありません」 「いえ、もう、そんな……、」  だけど、送って頂いたのが嬉しくて、直のお手紙はいまも大事に取ってあるんです。  時折開いて、兄と一緒に見るように……という楓の囁きは、恥ずかしさの余り吹き飛ばしてしまいたいほどだった。  どこかで、吹き出すように(さえず)って春の鳥の飛び立ちの音が響いた。
/101ページ

最初のコメントを投稿しよう!

125人が本棚に入れています
本棚に追加