なんと儚いものだけど

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なんと儚いものだけど

『さりさりと 去りとて去りぬ さるひとの』  いまだ信じきれないばかりだ。  夏八木とお香の歌は、日常の何気ない感応から、確かに近しいひとへの哀切、慕情、また女性らしいひめた恋ごころを詠うものにつよく惹かれる鋭さがあり、 近親者を早くに喪くしたのでは……という勝手な想像はしていた。  素顔は、一貫して露わにしたことはない。近影やメディアに出演する際は、常に振り向く(きわ)の和装の後ろ姿で、特徴的な右頸の黒子も映らせず、 どこか浮世離れした露出は歌の冴えと相まって神秘性を増し、『現代(いま)小町』と喩えられるほどだった。  だけど、確かにこの、目の前のなよやかな骨格は、その姿と一致するものがあるのでは、 そして、何よりこの鈴の音を転がすような、耳に心地好く穏やかな口調は、 幾度も拝聴していた歌の総評を述べるあの声と、確かに、重なっているのではないかと、 掴みきれない納得と自答を繰り返し、ひとりまだおたおたと考えあぐねて首を捻っている俺の前で、やっぱり聴き覚えのある楚々とした声が、 「初めてお目に掛かった時、高階さんを『先生』とお呼びしましたが、 高階さんは、兄に歌を教えた"張本人"ですので、 私にとっても、古いお師匠さま、先生のような存在であると。 彼方からずっとそのような想いで見つめておりましたので、そうお声掛けした次第です」 「いやいやいや……、」  歌聖を捕まえて、こんな泥臭い、下手の横好きの域をまるで出ず、ましてや刑事施設揚がりの、 図体と比例してどうもひとの本質(機微)にはふれられない荒削りで拙い詠いの男を、師匠と呼ばせられる訳がないと、 突如現れた天川の妹、それは憧れの現代(いま)小町だったのだという急転の事実が、 混乱と恐縮しきりで、無駄に大きな身体を野暮ったく縮こまらせるばかりだった。  ころころとした笑みを浮かべぐっと身近になった歌聖は、やがてそれをそっと改めた。 「高階さん……。高階さんから受け継いで、兄のこころをも溶かせた大切な贈りものですけど……。 歌を詠む、ことだなんて……。高階さんが就かれていた、生命を護る、総てのひとの生活や基盤になくてはならないお仕事などに比べたら、 本当に、儚いものです……」  楓の表情に悲壮はなかったが、陽炎のように透いた翳りがそこへ宿る。 「こころを言葉にしてあらわすことなど、それこそちいさな()のうちからなぞれる、誰にだって可能な、仕事とも呼べない『所作』です。それを生業(なりわい)に選ぶ、だなんて……。 目の前や周りの重責から逃れた戯れごとだと、世捨て人のように(そし)られることもあります。 ですが、ひとには大なり小なり、この社会に足を着けて立つ意味があるのだと思うのです。——あって欲しい。 私は、自分のその役割に、言葉を、歌を択びました。 何とまあ、儚い泡沫(うたかた)のようなものですけど、何かを生み出す、言葉や音に乗せて自分や、のこころを詠って伝えることは、 たったひとりでも、この世界の誰かのこころを、ふるわせるかも知れないのです。 そしてそのふるえは、小さくとも、途中で絶えてしまったとしても、 いつか、やがてはこの社会へほんの小さな波紋のようにして伝わって、 誰かの動くちから、源になり得るのかも知れない。 そしてそれは、そのまま、私『たち』の生ける、意味として、この身に還って、見出だされるものになってくれるのかも知れない」  河の(さざなみ)なのだろうか。楓の半身にかけて天上からの煌めきのようにひかりの流動が纏わって、 それは、彼女が言うように、きっと彼女自身で見つけた己れがそこに立つ意義(ひかり)なのであって、 それはその背後の、誰かのものでもあるのだ。  俺は、いまこの社会に再び足を着けることが赦された。  俺にも、 その意味が在るのだろうか——。 「それに、言葉は、奇跡です。いのしえのひとが遥か昔に胸に迫った可笑しみ、哀しさ、慕わしさ、狂おしさを、 私達となのだと、隔てられた悠久を瞬間になくして感じとることが出来ますし、 ……歌を通じて、私は主人とも出逢うことが出来ました。 何より、こころを(から)にして、自分だけの想いを抱くことを棄ててしまったひとが、 その想いを、かたちで、あらわすことを叶えましたし、 たとえ、その身体がかたちをなくして仕舞ったとしても、 その想いは、継がれて大切なひと達の胸に、残っていきていくことが出来るんです」 『俺も、——このままで終わるつもりはないよ……』 『そういう、"奥ゆかしい"やつが、好きなの…………?』  面輪(おもわ)に浮かんだのは微笑みだったが、楓のそこに既に宿されていたのは、陽射のような揺るぎなさだった。 「私は、兄の存在を、兄の想い(いのち)を、 朝のひかりを浴びようとして、ほろりとかたちなく零れゆくしずくのような、 朝つゆにしてしまうつもりは、ございません」  携えていた和装バッグの上で、左薬指の輪がきらりとひらめいて、楓は何かを取り出した。
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