静かの桜

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静かの桜

   春の晴れの日にひとりが降り立つ。  (すず)色の着物。一礼をした白魚のような肢体が面を上げ、生成(きなり)のバテンレースの傘に、透かされた陽とともにその背が覆われる。  微笑みが黒いまとめ髪、右頸の黒子と流線上に溶けて、 きよらかに歌を詠み、かけがえのない存在をまたひとつ、この空のように透きとおり護るべきものを得たその(ひと)の影は、 拡がる彼方、外界の現世(うつしよ)の地平のなかへと、 音もない、春の息吹きに包まれた朧ろなる精のようにして、やがて消えた。  ひとりが満ちる。  この世界は、雑多と混在にこんなにも満ち溢れているのに。  今の俺に残されているのは、 春の陽気。渡る薄蒼と白雲の(そら)。足裏に感じるすり減らされたアスファルトの歩道。傍らにはもう戻ることはない、あまたの罪科を内に閉じ込めた(にび)色の長塀。  こんなにも自分以外の物質と繋がってさえいるのに、『俺』という個の存在に、いやがおうにも浸らされている、 与えられることすら惜しまれ、ついに解放を許された『孤』という有限の見えない時間。  永年、待ち続けていたのはこの瞬間なのかと、五感に痺れるように受け容れようとして束の間、(とど)まる。  いや、ひとりでは ないんだ。  そして、本当に待ち望んでいたのは、"今"この瞬間(とき)じゃない。  それを手に入れるため、俺はただ一番にと思っていたものをこの眼におさめるために、 他の雑多を視界から払って、(きびす)を返した。  近付くにつれ、音はしない。地を踏みしめる音を俺の耳は拾おうとはしない。  ただ、が発するどんな気配も、零さずこの五感に注ぎ入れようと澄ましている。  やがて、聞こえた。 春の息吹が。  音はしない。鼓膜(みみ)を拍つのは静寂の心音ばかりだ。  だが頭上から、顔を覗かせるいくつもの花冠が、優しく唇をふるわせる声音が辺りに満ち満ちている。  視界も、染まった。  淡桃の、世界がそれと変わってしまったかと錯覚を覚えるほどの、満天の薄紅。  真っ先にこの身体へ呼気のように吸い込まれたのは、香気だった。  春の、恥じらいの素肌を晒すようにして溢れる、艶然を含みながらも、 純潔、楚々、昔からの奥ゆかしさを忘れない、やさしく雅びやかを落とす、ため息のような薫り。  肢体は雄々と黒々しくそびえるのに、纏う花々は可憐で、 この国で生まれた、この国を生きている。それを想い起こさせてふるえる、 きよくて雄大な、白と紅とが溶けあってひらく、ただ唯一の、(たっと)き花。  桜。  胸に、生きた熱を込めて綴られた、幾つもの言葉(想い)が詰められた手紙を当てて抱きながら、 一本の桜の樹と、俺は邂逅した。  眼を閉じ、肺の内奥までその酸素(いき)を吸い込む。  解き放たれて、やっと初めて触れた、外界の無垢な息吹を沁み込ませるかのように。  ずっと予期していた、馥郁(ふくいく)たる春の爛漫に満ちあふれた薫り。  瞼を、憧憬に誘われるように開く。紛うことのない、桃色一色の天辺。  この景色だ。いま、この瞬間(とき)にそれがある。  枷をつけられた塀から放たれた、その時にと求めていた必然は、これなんだ。  いま、そのなかに俺は()る。    そして、ここに立つこの俺は、 ——やっぱりひとりじゃない。 「——…………やっ、とふたりきりになれたなあ」  傍らに、その気配を。俺は確かに、感じていた。  (とおる)、有難う。  透。凄いなあ。  透。綺麗だなあ。  透、凄いよなあ、桜。  透、ほら、こんなにたくさん。  有難う。 一緒に見てくれて、有難う。  俺にこの景色を、見させてくれて有難う。 『桜、一緒に見よう』  遠い昔。『生きていて良いのかな』。  呟いたお前の、見上げた瞳にひかりがわなないた。 『——…………憶えていますか。……二十年前の。"今日"、だったんです』 『…………勿論です』  別れ際の、楓の呟きと眼差しが交錯する。  お前が春の澄んだ空に溶けて、俺が桜の樹の根に崩れ落ちて、世界を憎んだあの朝から、 二十年(はたとせ)もの月日を呑み込んで、必然かと、やはり手繰り寄せられたのかとひそかにふるえた同じ日に、遂にこの塀を()ると知ったときから、決めていたんだ。  絶対、お前も連れて行くんだと。  あのしみったれた監獄なんかに留めて閉じ込めておいたりなんかしない、絶対、お前も連れて一緒に出るんだと、 そしてこの景色を、一緒に、何よりも先に一番に見るんだと、 絶対絶対に、そうすると決めていたんだ。
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