象徴の樹

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象徴の樹

*  ()けた、と同時に流気に包み(おお)われる。  あおく、甘く沈んで掠める。生々しいほどの『生』のとろみを地表から漏れいでさせ、色濃く抽出した呼気。  だがそれは、季節をことほぎ、その到来を万物に告げるために綻びを露わにした、春の薫風だ。  ことほぐ、よりも解放がやはりやや(まさ)った。  鉄の覆いに似た官服を通してまで、この身に直に触れた、こころの開け放ちを許された気がする、この安堵を否めることはどうにも出来ない。  一定の範囲起居を重ねているとはいえ、囚を縛っている官の自分でさえも、監獄から抜けるこの扉を押し広げた際の、解放感たるや、ないのだから、 受刑者のそれはどれ程のもの、渇望なのだろうと、 T拘置所処遇部看守長・園山収史(しゅうじ)はいつもこの『瞬間』に想う。  屋内から遠ざかるにつれ、漸く春の報せに想起を向けるゆとりが生まれた。  だが、あくまでも視線の彼方へぶつかるのは、四方を覆う頑強たる『塀』であって、彼自身も現実の"外"を手に入れた訳ではない。  奇妙な感覚だが、自身と受刑者との間には獄という明確な境、罪渦という決定的な位地の(ひず)みが存在する筈なのに、 受刑者の居住を管轄する職務がゆえ、彼自身も勤務時間内は外へ往来することは当然認められず、『官』でありながら自分も塀のうちという外界との鎖されのなかに在ると自覚している。  同じひとでありながら。同じ区域に属していながら。  ひとを統制し、更生へと導く名目の(もと)受刑者(彼ら)にとっては『外』の人間でありながら、その外からも意図的に遮断される前提が敷かれている。  うちにもなれず、外にも染まれず。  時折その思念に沈降するときがある。  自分は一体、何者であるのかと——。  沈降は思いの外つよい、春の息吹に遮られた。  この季節は個人として、様々な想念にとらわれやすくなるのだが、染みいでるような盛花のはなやぎ、『訪れ』を告げる(かぐわ)しさは、園山にありのままのこころへ寄るところを思い出させてくれた。  自然と制帽を浮かし、降ろして伏せられた髪にも春風を送る。  所内の中庭であるが、いっとき、看守長の任を降ろすことを自分に許した。  職務には鉄のように徹する意志が染み通っているが、公と私は明確に分けたい気質が本来の彼にはある。  ゆっくりと、普段の速歩には見られない足取りで地面を踏みしめていく。  春に纏われながら、個人的には気の勧まない『感傷』というものの遂に相伴に預かるのかと自嘲している。  長年、短い(いとま)の間に自分も親しんできたこの小さな『外界』の風景に、しばしの別れを要するのがやがて現実となる。  向かう先は、自ずと決まっていた。  生命の集大が、そこへそびえている。  天を貫くような。いや、これこそが(てん)へと代わってしまったかのような。  優美な幾輪もの花弁がしっとりとはなひらく群れは、まさに桃源の雲のようだ。  それを宝飾のように散りばめた、黒銅の巨躯の胴にも似た、幹の剛健さといったら。  この桜の(よわい)は、どれくらいなのだろう。  かたちこそ変わらずに見えるが、この樹も確実に年の輪を刻み、数えきれないほどの刹那の風に吹かれてきたに違いない。  繰り返し花をつけ、繰り返し散華を惜しまずに魅せて。  かつての朝、自分が誰かのために手折った一枝は、もうその箇所も判然とせず、新たに樹皮を張り、枝を(きざ)し、無垢な蕾をまたきっとはなひらかせている。  目の前の些末な自分()も、また現実に歳を重ねた。  いつまでも全盛の精気、気概は常備し得るものだと疑わなかったが、身体は確実に衰えを知り、素振りにも出さないが体力の底を見て諦めの腰をつくようになり、 いつの間にか髪の根に兆すようになった白糸は、どうせ制帽の陰に隠れたままだと構わなくなった。  心境も、無論変わった。  前へ前へとがむしゃらに進み続けて振り返れば四十代の半ばを過ぎた過渡期を迎え、想定していた職務や人生のなかでの岐路を、幾つも超えていることに気づく。  進み続けはするが、その速度を自分のためだけに上げる時期は、きっと過ぎた。  培ってきたことを糧に、率いることはまだ必要だ。だが、確実に己れの背後に生まれたもの、新しく未来を見据えて輝かしいばかりのひかりを携えたもの達が、大勢控えている。  園山にとって、この樹はこの地における、もうひとつの生命の象徴だった。  彼の眼で、()で見送った儚くかけがえのないいのちの消えた、あの朝から。  揺れそうになった時。なぞりたい、貫きたいと、時には縋りたいとさえ思った時、 この樹の前に立って、彼はひたすらその答えを見つけ出そうとしていた。  生命。ひとを『是』へと導く、この職務を選んだ、己れの辿るべき道。  そしてこの俺が生きている、生かされている、その、意味とは——。  この樹に相対する時は、無意識にも看守の皮膚を抜けた、園山一個人だった。  いまも、無帽に刑務官の眼を置いたそれをして、見つめ続けている。  迷惑だろうが、一個人として、暫しの暇を告げ、いま一度この眼におさめたかった。  視線を、そっと左方に向ける。音を立てないように歩み寄って、見定めたように静かに留まる。  視点は、彼より下にある。だが伸びをして、少しでもに届こうと、見留めてもらうためにせめて上がったかのような、 裏手に回っていて、一見ひとの目にはつかない木翳の差す位置だ。  それを見守ろうとする園山の眼は、哀愁を帯びている。 「——…………ん……!?」
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