「大正浪漫」はあったのか

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「大正浪漫」はあったのか

大正というと「大正ロマン」「大正浪漫」という言葉がイメージされるように、 なんとなくお洒落で自由な時代だったような気がしている。 だが、ほんとうにそうだったのだろうか。 そもそも「大正浪漫」、「大正ロマン」とは、大正時代の雰囲気を伝える思潮や文化事象を指して呼ぶ言葉ではあるけれども、何を指すのかはっきりした定義はないようだ。 文学史で、「明治浪漫主義」という言葉は存在する。 明治政府の上からの近代化、小学校唱歌のような儒教道徳の押し付けに対して、 人間性を解放して恋を歌い上げた与謝野晶子の『みだれ髪』(明治34年) などを指す言葉だ。 その、明治末まで文学・美術界で流行していたロマン主義(明治浪漫主義)を、大正時代の個人の解放や新しい時代への理想に満ちた風潮と、和洋折衷の先進的な文化に対し拡大解釈して、『甘美で抒情的でロマンチックな文化』があった、という憧れをもって、後世(1960年代頃)このように呼ばれるようになったようだ。 イメージとしては、矢絣の着物の上に袴をはいて、束髪にリボンをつけたファッションを「大正ロマンっぽい」と感じる人が多いかもしれない。 だが実はこれ、明治時代の女学生ルックなのだ。 大正時代が舞台の漫画「はいからさんが通る」のイメージなのだが、そもそもハイカラも、high collarから来た言葉で、明治時代、西洋風の高い襟の背広を着た人のことだ。   観光で走る人力車が「大正ロマン」だと思っている人(筆者含め)がいるが、人力車は明治3年に発明されたものだそうだ。 明治30年代には東京でも市電が開通していて、人力車はそれほどメインの乗り物ではすでになくなっていた。 ランプやステンドグラスも「大正浪漫」のイメージだが、ランプは明治時代のものだし、大正になると都市では電気を使い始めている。 どうやら「大正浪漫」は、時代考証のまるでないただの懐古趣味のようなものなのかもしれない。 では、実際の大正時代はどういう時代だったのだろうか。 1912年が大正元年で、15年しか続かなかったこの時代、都市に有閑階級が育ち、「今日は三越、明日は帝劇」と言われるように、デパートで買い物をしたり、芝居を楽しんだりする余裕のある層が生まれた。 文化風俗面の特徴としては、近代都市の発達や経済の拡大に伴い都市文化、大衆文化が花開き、華やかな時代を迎えたのだが、それは、「大正ロマン」ではなく「大正モダン」(モダンとはモダニズム=近代化)と呼ばれたのだ。 女性も家の中でなく、マネキンガール、デパートガール、バスの車掌、タイピスト、カフェの女給、女優など外で働く色々な仕事が出てきた。   外で働くには、毎日髪の毛を結い上げ、着物を着るのは面倒だし、下駄で外出すれば足袋が汚れるということから、髪を切り洋服を着るようになった。 最初に髪を切ったのは、望月百合子という読売新聞の記者と大橋ふさという作家だったそうだ。(大正9年1920年) これら女性の社会進出は、1914年から始まった第一次大戦の影響がある。 ヨーロッパで、男たちは戦場へ出て行き、女たちが後を埋めたのだ。彼女たちはコルセットをつけた長いスカートを脱ぎ、もっと軽い動きやすい服装をして、髪も切って工場や炭鉱で働き、運転手や車掌になって活動した。 その姿が日本に雑誌のグラビアなどで入ってきて、日本女性も真似るようになっていった。しかし、洋服、靴、ストッキング、帽子、バッグに手袋も誂えるとなると、断髪・洋装はお金のかかるものだった。 同じ頃、人口の圧倒的多数を占める日本の女性たちは、野良着で田畑で働いていたのだが。 尾崎行雄は議会での護憲主義を叫び、 吉野作造は、民本主義を主張した。 「大正デモクラシー」という言葉が使われるようになる。   そして、自由主義教育や自由恋愛も盛んになり、国家や家族より、恋愛に重きをおく自由奔放な事件がいくつも起こった。 この頃から自由恋愛の流行による心中・自殺や、作家や芸術家の間に薬物や自傷による自殺が流行した。 大衆紙の流布とともにそれらの情報が増幅して伝えられ、時代の不安の上に退廃的かつ虚無的な気分が醸し出された。 これらの出来事が「大正浪漫」に叙情性や負の彩りを添えて、人々をさらに蠱惑する側面もあるのではないか。 大正の特徴をまとめると 「親不孝、自由恋愛、口語文」 (大正生まれコラムニスト山本夏 彦氏)だそうだ。
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