竹久夢二と大正浪漫

1/1
15人が本棚に入れています
本棚に追加
/14ページ

竹久夢二と大正浪漫

今使われる「大正ロマン」の 一番のカリスマは竹久夢二かもしれない。 1974年 この年生誕90年であった竹久夢二が 「ロマン」と付されて紹介された。 「大正ロマン」は、この流れで結びついた二語(大正・ロマン)という説もあるようだ。 ちなみに、ロマンとはフランス語では 「小説」を指すのだそうだが、日本でこれに浪漫の字を当てたのは夏目漱石だと言われている。 竹久 夢二(たけひさ ゆめじ) 1884年〈明治17年〉岡山県生まれ 1905年(明治38年)21歳 『中学世界』に『筒井筒』が第一賞入選、このとき、初めて夢二を名乗った。 また、友人の紹介で平民社発行の『直言』にコマ絵が掲載され、この後、『光』、日刊『平民新聞』に諷刺画などの絵を掲載するようになる。 『筒井筒』の入選をきっかけに、童話雑誌「少年文庫」の挿絵や読売新聞社の時事スケッチを担当するなど、商業画家として活躍。 夢二の美人画は当時の画壇には受け入れられず、雑誌購読者である少女を中心とした大衆に人気があった。 少女雑誌や婦人雑誌の挿絵や表紙を手掛けたほか、絵葉書やポチ袋、手ぬぐい、着物といった生活用品や、商品ラベルやパッケージ、ポスターなど商業的な作品も数多く手掛け、 現在の商業デザイナーの草分け的存在といえる。 画家として評価されるようになったのは死後のことになる。 夢二の描く美人画は、「夢二式美人画」と呼ばれ浮世絵的な色使いや日本画の技法で書かれたことから「大正の浮世絵」とも呼ばれた。 華奢で儚げな体つきに、どことなく憂いを帯びた表情の女性は独特の世界観を持っていたが、彼の描く女性像は肺結核のような薄い胸、細すぎる首とうなじを持った女たちで、ある意味退廃的であり病的でもあった。 そのファッションが今に続く「大正ロマン」の原型となった。   しかし、夢二は元々は社会主義の「平民新聞」などから出発した風刺画で、生涯貧しいもの、恵まれぬものに思いを致し、低い目線を持ち続けた人だったともいわれる。 私生活においては、恋多き人といわれた。 1907年(明治40年)23歳 2歳年上の岸たまきと結婚。2年後に協議離婚するも、その後同棲、別居を繰り返し3人の子どもをもうける。 たまきは、戸籍上の唯一の妻。 1915(大正4)年彦乃(本名笠井ヒコノ)と出逢う。その後、たまきとは別離。 彦乃は女子美術学校の学生だった。 1917(大正6年)33歳 京都高台寺近くに彦乃と同棲。しかし、大正7年(1918年)に結核を発病。父の手によって東京・御茶ノ水の順天堂医院に入院した彦乃は、1920年(大正9年)25歳で病没。その短い人生を終える。 夢二は彦乃を最も愛しており、その死後しばらくショックから立ち直れなかった。 1919年(大正8年)35歳 寄宿先(彦乃の見舞のため逗留するも、面会を拒絶される)の本郷・菊富士ホテルにてモデルのお葉を紹介される。 1921年(大正10年)37歳 お葉(本名佐々木カ子ヨ)と渋谷で同棲。(6年後には離別) その他に、作家山田順子が愛人として知られている他、「宵待草」作詩のきっかけとなった長谷川カタ(妻たまき、長男虹之助と共に銚子に逗留中、宿の隣家の娘を見初め、言い寄って口づけを交わす仲となったという)が知られている。 1925年(大正14年)41歳頃、お葉、山田順子と別離した後は、絵が売れなくなりアメリカ、ヨーロッパと旅をし個展を開くも、米国も不況のさなかで振るわず、帰国。 1933(昭和8)年結核を発症。 1934(昭和9)年富士見高原のサナトリウムで、孤独な死を迎えた。 現実の夢二の後半生は「ロマン」とはかけ離れたものだっだ。
/14ページ

最初のコメントを投稿しよう!