1人が本棚に入れています
本棚に追加
四話
オレの抱えた猫が身じろぎして、ピョンと飛び下りた。うずくまる父親の前で、なにもない宙を見上げる。
そして、甘えるようにニャアと鳴いた。
そこに誰かが立っている。
「泉野……?」
パァン、と風船が破裂するような音が聞こえた。
後ろ姿の彼女が膝をついて、父親の肩に手を置いた。
「私はここにいるよ」
「すみれ!?」
彼はガバッと体を起こして娘を凝視した。彼女がうなずいてみせる。
「ごめんね、心配かけて」
「お前が無事なら、それでいいんだ」
「私はお父さんと一緒に暮らしたい」
「そうか……。父さんも、すみれがいてくれると嬉しいよ」
父子がそっと抱き合う。泉野は感極まった声で「ただいま」と囁いた。
彼らの足元に、猫がじっと寄り添う。
* * *
店の外で星空を眺めていると、ドアの開く音がした。猫を抱えた泉野が、なじる目を向けてくる。オレは反射的に謝った。
「ご、ゴメン……」
「いま、那須くんにだけは見られたくない」
「うん。けどオレは、泉野が見えなくなるのは二度とイヤだ」
「そういうこと言わないで。もう傷つきたくないの」
彼女が憮然とした表情で猫を渡してきた。オレは受け取る。
「明日が来る保証はないんだって、よく分かった」
「……そうだね」
「ほんとは、去年から泉野が気になる存在だったんだ」
「え?」
「一年間なにもできなかったけど。ずっと泉野を意識してた」
「う、嘘……」
「だから、掃除とか文化祭とかで連絡事項を伝えてくれたとき、内心ではメチャクチャ舞い上がった」
彼女はひたすら困惑の表情をする。オレは続けた。
「幻みたいになった泉野が、オレにだけ見えたのは――」
とてつもなく恥ずかしい。でも永遠に伝えられない、と絶望したことを思えば。
オレは相手をまっすぐ見つめた。
「きっと、好きだから」
「那須くん……」
「こないだはごまかしてゴメン」
泉野は真っ赤になって視線をさまよわせる。オレも顔が熱い。そして、いたたまれない。
けれどホッとした。言葉にできるのは幸せなこと。
もう一度チャンスを与えられた。彼女が戻ってこなかったら、情けない自分をいまも責めていた。
猫が鳴いたので、お腹を撫でる。
「泉野とお父さんが気持ちを伝えられてよかった」
「それは感謝してる」
「オレがいなくても、分かり合えたんじゃないかな」
泉野は考える顔をしたあと、疑問を投げかけた。
「お父さんに見えなくて、那須くんに見えたのはどうしてかな」
彼女が特別な存在だ、という意味では、違いはない。というか、父親の愛情のほうが深いはずだ。
「泉野が、お父さんの前から消えたいと思ったから?」
「学校でも居場所がなくて、いなくなりたかった。でも、この子の目に映るのはイヤじゃなかった」
泉野が猫に穏やかな眼差しを注ぐ。
「だから、那須くんには見えたんじゃないかな」
「……オレが迷惑じゃなかった?」
彼女はこちらの腕の中を見つめたまま、つぶやいた。
「すこし言葉を交わしたこと、那須くんも覚えてるなんて……」
うつむく頬が赤く染まる。
「クラスが分かれて思い出になるはずだったのに。こんなに関わったら……過去にできない」
オレは苦笑した。
「オレの執念が上回ったのかな。できれば観念してくれない?」
「私、こんなめんどくさい性格だから、すぐには無理」
「すぐじゃなかったら?」
「わ、分かんない」
泉野はこちらをこわごわ見上げた。
「ケンカしたら、また消えちゃうかも」
「泉野はお父さんのために戻ってくる子だし」
「なんの保証にもならないよ」
「怖がって行動しないほうが、何倍も後悔するって分かった。いま、泉野はオレの前にいる」
彼女はわずかに瞳を潤ませた。
「ありがとう。私を見失わないでくれて」
「泉野がいなくなったら探すから。安心して消えられるよ」
泉野はクスッと笑った。猫の頭をいとしげに撫で、こちらの肩に額を寄せた。
「那須くんがいたら、もう思いつめたりしない」
オレはドキドキしつつ、薄情にも猫が邪魔だと思ったが、こいつのおかげで身動きが取れなくてよかったかもしれない。
「泉野は大丈夫」
なかば寄り添う彼女が、小さくうなずいた。
* * *
その後も泉野は、クラスメイトから『あの子がいなくなった』と言われた。
昼休みのたび、オレと校内のどこかで弁当を広げているからだ。
ある日、オレはふと気付いた。
「『いなくなった』っていう表現は、『それまではいた』って認識してるから出てくるものだよな」
「それが?」
「泉野は自分のこと『いてもいなくても同じ』って言ったけど、みんなにとって泉野が『いること』と『いないこと』は違ったんじゃないかな」
彼女が困惑して黙り込む。オレは押しつけにならないように言った。
「オレ的には噂が流れてよかった。じゃないと、隣のクラスでも異変に気付かなかったかもしれない」
「みんなが那須くんを呼んでくれたんだね」
泉野は微笑した。
「そんな糸を見てなかったのは私のほうかも」
「気付いてるやつなんて、ほとんどいないと思う。オレも含めて」
「那須くんも『いなくなりたい』って思いつめることあるの?」
「いま、まさに」
「えっ、どうして?」
オレは近くに人がいないことを確認してから、声を潜めて告白した。
「二人きりになるとドキドキして、許容量オーバーで逃げ出したくなる」
「……バカ。そんなこと言われたら意識しちゃう」
相手の恥ずかしがる様子にオレは笑った。
「伝えないと後悔するって実感させたのは泉野だし」
「わ、私のせい?」
「あと、思ってることを正直に言うと、反応がかわいい」
すると泉野はいたたまれない表情で身を引いた。
「いますぐ消えたい……」
「いいよ。すぐ見つけ出すから」
オレがにんまりすると、彼女は拗ねた表情になった。けれど気を取り直す。
「戻ってこられたのは、那須くんのおかげ」
「俺がどれだけ帰ってきてほしいと願っても、一方通行だったら叶わなかったはず」
彼女がくすぐったそうに笑う。
「私、かくれんぼしてたのかな。ずっと一人だと心細くなるよね。『見ーつけた』って言われてホッとするの」
そしてこちらを見つめた。
「鬼さんに見つかっちゃった」
「うん」
オレはガキで、つまらないことでケンカするかもしれない。泉野がいつまでそばにいてくれるか分からない。
でも、いまはこうして隣にいる。
勇気を出して想いを伝えれば、彼女の表情がほころぶ。
オレが泉野をきちんと見て、それが相手にとって喜ばしいことなら、なにがあったって糸はつながる。
孤独に怯えるあの子は、いなくなった。
最初のコメントを投稿しよう!