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美桜の雇い主は四十代目前の男性だ。
独身の一人住まい。
美桜の他に家政婦は居ないと聞いている。
最初はどうしようかと、悩んだ。
住み込みとなれば、当たり前だが夜も同じ家で過ごす事になるのだ。
しかも雇い主の家は山の中にあり、麓までは車で下りなくてはいけないと言う。
158cm、色白と、大きな目位しか特徴のない自分だとは認識しているけれど。
つまりは、何かあっても助けは呼べないのだ。
釘崎とは何度か電話で話した。
雇い主の、遠坂弘成は画家で、日中は殆ど母屋の向かいの離れのアトリエにこもって過ごすのだと言う。
放って置けば食事も忘れ、下手をすれば睡眠も忘れてしまう。
その手助けが美桜に求められた主な仕事だった。
「この間説明した通り、会話も挨拶もいりません。…母屋の掃除、洗濯、食事の準備、風呂の用意さえしてもらえば、あとは麓で自由に動いてもらっても構いません」
その条件に驚いたところで、更に特殊な理由も説明されていた。
美桜が採用された大きな理由。
手話が出来る事だった。
「向こうから話しかける事はまずありません。リビングに筆談用のブラックボードが釣ってありますので、必要な意思疎通はそこで、書けば読んで対応します……多分」
「はい、承知しました」
遠坂は耳が不自由なのだ。
それに、出来る限り人との接触を避けたい人間だった。
これまで何人か家政婦は派遣されたらしいのだが、皆三ヶ月程で辞めている。
孤独に耐えかねたのだろうか。
少なくとも、遠坂の対応が問題だったと言う報告は無かったそうだ。
……こんなに高待遇はない。
勿論、美桜にとってはだけれど。
一人になりたい。
誰とも接したくない。
今の美桜にとって、これ以上望ましい仕事は無かった。
山を一つ買ってしまったという遠坂の住居は、麓から車で15分ほど上った所にあった。
買い出しの心配をしていた美桜だったが、有難い事に道は舗装されていてホッとした。
「……わぁ」
「はは、開放的でしょう?」
平屋の母屋は木造造りだった。
しかし離れと庭を挟んで向かいあった窓は全面がガラス張りで、丁度一面だけ開け放たれたままの窓の中から、家具も、奥のキッチンも全て見えていた。
木の柱と、無垢のフローリング、ナチュラルモダンな家具。
一度は住んでみたくなる、まさに開放的な家だった。
「あの、遠坂さんにご挨拶は……」
釘崎が玄関を開けて美桜を中に通してくれた。
「いや、僕が伝えます。貴女が到着したのさえ分かれば大丈夫ですから」
「そう、ですか」
余程の人嫌いなんだな。
でも、助かる。
「澤谷さんは、こちらの部屋を使って下さい。遠坂は突き当たりの部屋が寝室です」
八畳ほどの洋室に、ベッドと小さな作業テーブル。
小型のテレビとエアコンまで完備されていた。
「食材を運んで来ますので、先に荷解きをどうぞ」
「すみません、ありがとうございます」
麓のスーパーで先に当面の食材を仕入れてから上がって来た。
今晩は何にしよう。
遠坂は食に頓着が無いらしい。
トースト一枚置かれていても眉一つ動かさなかったらしい。
最後の家政婦が、冷蔵庫の中身を使い切る為に最後の朝食をそれだけ出したそうだが、遠坂は黙々と口に運び、最後まで会釈すら交わさずに終わったとの逸話を聞いていた。
小さな鞄の中身は、広いクローゼットに一瞬で収まってしまった。
座ってボーッとする訳にもいかないので、玄関で待ち受ける。
釘崎から買い物袋を四つ受け取ったら彼はその場所で頭を下げた。
「では、よろしくお願いします。何かあれば僕の携帯に連絡を下さい」
「はい、お手数お掛けしました」
にこやかに踵を返した釘崎を玄関から見送り、美桜はよしとエプロンをつけた。
まずはキッチンを探検しよう。
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