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千日草
執務室へ着くと、ステファン様は書類を整理し始めた。
「ちょっと、待っててくれ。今日中に決済しなければならない書類が、溜まっているんだ」
「承知しました。では、あそこの椅子で待っています」
「ああ‥‥‥」
私は部屋の隅に置いてある椅子に腰掛けると、ステファン様の仕事が終わるのを待っていた。ただ待っているというのは楽だが、退屈だ‥‥‥。何もしないというのも、逆に疲れてしまう。
「セシル様‥‥‥」
「あなたは‥‥‥。ションリさん」
「この間は、ありがとうございました。おかげで業務も滞りなく進み、なんとかやっていけそうです」
「そう‥‥‥。良かったわ」
「城の者から、魔王様の正式な婚約者になられたことを聞きました。この度は、ご婚約おめでとうございます。本当の名はスザンヌ様とおっしゃるのですね」
「ええ、あの‥‥‥」
「本当にようございました。魔王様はいつまでたっても独り身で‥‥‥。みな心配していたのです。これで魔王領も安泰ですね」
「えっと‥‥‥。そのっ‥‥‥」
ションリさんは、感激で涙を滝のように流し始め、ハンカチでは追いつかない量の涙を流していた。その様子に、私は呆然としてしまう。
「あっ、すみません。涙で魔王様に提出する報告書がぐちゃぐちゃに‥‥‥。作成し直して参ります。それでは、失礼します。お幸せに!!」
「‥‥‥」
「良かったな‥‥‥。喜んでくれる人がいて」
ステファン様は、こちらを見ると笑いをこらえるような体勢で、口元に手を当てていた。
「良くないわよっ‥‥‥。みんな、私が本当に婚約したと思ってるじゃないの。仮の婚約なのに‥‥‥。後で責められたりしないかしら?」
「その点は、後で俺から言っておくから大丈夫だ」
「ステファン様‥‥‥。1つ気になってたんだけど‥‥‥。千日草で本当に婚約破棄が出来るの?」
「大丈夫だ。千日草は、魔法薬の材料の一部だが、魔導具や魔術具を使用前までの状態に戻してくれる薬だ。名前の由来と同じ意味で、千日前までの魔術や呪術は解除することが出来るはずだ」
「婚約の雫についても‥‥‥。同じ効果があるの?」
「正直なところ、分からない‥‥‥。婚約の雫を解除しようとした人が、今までにいなかったからな。悪いが、『絶対に大丈夫』とは言いきれない」
「でも、魔族にとって、魔王の正妻になる事は栄誉なことなのでしょうね」
ステファン様は、私の前まで来ると屈んで手を取り、指先にキスを落とした。そのままの体勢で赤い瞳をキラキラさせながら、私を上目遣いで見つめていた。
「‥‥‥人族も魔族も、大抵は俺の地位や財産目当てだ。そんなの関係なしに、嫁になりたくないなんて正直に言うの、お前くらいだよ」
「え?」
「‥‥‥まあ、千日草が効かなかったら、俺が嫁に貰ってやるから、その辺は安心しといていいぞ」
「何それ?! 全然安心出来ないんだけど」
「は?」
「だって、魔族は‥‥‥。一夫多妻制なんでしょ。そんなの嫌よ。魔族の価値観で私の価値観を決めつけないで。人族で、一夫多妻制の国なんて、今どき珍しいわよ」
「つまり、他の人に目移りするような奴は嫌だって事か?」
「そうよ」
「分かった。正妻以外の人とは結婚しない‥‥‥。これで満足か?」
「いや、だから何で結婚する前提で話が進んでるのよ」
「俺のことが、そんなに嫌いか?」
「嫌いじゃないわ‥‥‥。でも、好きとも言えない」
「じゃあ、好きになればいい」
「はい?」
魔王ステファンは私の手を取ると黒い渦を出現させ、一緒に別の場所へワープしたのだった。
*****
ワープした先は、森の中にある切り立った崖の上だった。どこの森なのかは分からなかったが、その場所は森全体が見渡せて絶景だった。
「きれい‥‥‥」
私がそう言うと、雨上がりでもないのに丘の向こうに虹がかかっていた。
「どうだ‥‥‥。少しは見直したか?」
「うん。魔王領にも、こんな素晴らしいところがあるのね」
「スザンヌ‥‥‥。正直に言おう。俺と結婚して欲しい。俺は‥‥‥。お前に会って、初めて気がついたんだ。自分がスザンヌに惹かれていることに‥‥‥。スザンヌのことが気になって‥‥‥。よく分からないが、好きなんだと思う」
「ありがとうございます。私もステファン様の事は好きです」
小説の中に出てくる魔王は、もっと極悪非道だった気がする。でも今、目の前にいるステファン様は、魔族全体が暮らしていきやすいように隅々まで心を配っている好青年だった。
「それなら‥‥‥」
「ただし、友としてですわ‥‥‥。恋愛で好きかどうかと問われれば、違うと思うんです」
「そんな‥‥‥。俺は、どうすればいいんだ?」
「どうもしません。ただ魔王として国を治めるべきだとは思います。私も側にいて、契約期間中はお支え致しますわ」
「契約期間中だけか?」
「ええ‥‥‥。これからも、よろしくお願い致します」
淑女の礼をした私に対して、魔王ステファンは、顎に手を当ててしばらく考えるような仕草をしていたが、やがて我に返ると私に対して、微笑みながら言った。
「そうか‥‥‥。残念だが、これからもよろしく頼む」
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