1章

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 20×3年、8月31日。 「――慶吾、いらっしゃい!」  古い木造アパートのドアを開けると、そこには交際を始めてもうすぐ四ヶ月になる最愛の人の顔が見えた。  中央で分けた髪の間から覗く、キラキラ輝く柔らかな微笑み。入口が更に狭く感じる細身の長身。洗練されて美しいその姿が、古くさいドアとは本当に対極で笑えてくる。  いや、それを言うなら……華やかな彼氏に対して、彼女である私も地味で対極か。 「夏美、会いたかったよ。ごめんね、無理を言って家にまで来ちゃって」 「いいんだよ。慶吾こそ、家族旅行終わったばっかりで疲れてるだろうに。来てくれてありがとう。……でも、本当に家の中は狭いし、汚いからね!?」 「大丈夫だって。――お邪魔します」  慶吾は玄関と呼ぶのも憚られる僅かなスペースで靴を脱ぐ。  しゃがんで靴を揃える姿ですら絵になって見えるのは、彼女の欲目ってやつなのかな。 「ごめんね、お父さんには早く帰って来るように言っておいたんだけど……。聞いてたのか聞いてないのかもわからない、適当な反応でさ……。あ、その座椅子を使って」 「うん。でも、そっかぁ。夏美のお父さんには、会えないのかなぁ……。なんとか夏休み中に挨拶だけでもと思ったんだけど」 「……ごめんね。母親にも捨てられたような私で。当たり前のように、親への挨拶したかったよね」  麦茶をコップに注ぎ、小さな丸テーブルの上に乗せる。窮屈そうに座る慶吾に、私は自分の家庭環境が申し訳なくなる。 「いやいやっ。僕がしたかっただけだから、いんだよ!……お母さんの、病気は?」 「知らない。……もう一五年以上、連絡がないらしいからさ」 「あ……そう、だよね。変なこと聞いちゃって、ごめんね」 「ううん、気にしてないから! 私こそ、変な空気を作ってごめんね」  私は慶吾の向かいの座椅子に腰掛けながら、気まずくなってしまったことを謝罪する。……四ヶ月近く経っても、まだどこか私の喋りはぎこちない。  初めて人に好きだと言ってもらって。  初めての彼氏が出来て……。  幸せがどんなものなのかを実感したあの日――5月1日から、もうすぐ四ヶ月が経つというのに。
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