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未来へ
イグナーツがオフェリアに口づけしながら、細身を寝台に横たえる。彼女は涙を流し震えていた。
彼が「怖いか」と尋ねると、相手の瞳がすがりつく。
「怖いです。……幸せが」
「――俺もだ」
「まさか」
「近々そこに『恐妻』が追加される予定だ」
「酷い仰りよう」
オフェリアは他人事と思っているらしく、屈託なく笑う。
イグナーツがひとつ咳払いした。
「プロポーズとしては遠回しだったか」
「……え?」
彼女は投げられた言葉を考え直して、ようやく意味に気付いたようだ。困惑したのち、小さくかぶりを振る。
「わたくしは……多く望みません」
「俺が望む」
イグナーツは奪うようにキスをして、相手を抱きしめた。
シーツに広がる金髪や、白く華奢な首すじから、野原を渡る風のように爽やかな香りがした。その細身に触れるたび、オフェリアが色めいた吐息を漏らす。
「貴方さまが熱くて……蝋燭のように溶けてしまいそう」
「ああ、混ざり合ってひとつになる」
「こんな罪深いことが……」
「お前を堕とす俺を憎めばいい」
彼女はすべてを委ねるように目を閉じた。
愛撫に対しても、互いの手を絡める際も、オフェリアはぎこちない反応を示す。だがゆるやかに溺れていき、細い声でねだった。
「もっと知りたい……知ってほしい」
イグナーツは労わる行為で応じた。
心と身体で求め合う。そうして慈しみの眼差しを交わしながら、理想郷へと駆け上った。
* * *
「父上、伯父上、遅いです。待ちくたびれました」
小高い丘を登りきると、イグナーツの十歳になる息子が呆れ顔で出迎えた。双子の片割れである娘は、林のそばで花を摘んでいる。
ミロシュ王がため息をついた。
「やれやれ。この中で、私がいちばん体力ないらしい」
イグナーツはかすかに笑い、視線を目的地へ向けた。
丘から領内を見渡せる位置に、縦長の墓石が立っている。
その足元に、娘が作り上げた花輪を添えた。イグナーツも携えてきた花束を置く。
黙祷を捧げたあと、四人は草原に腰を下ろして昼食を取る。食事を平らげると、子供たちは周囲を歩き回って遊びに興じた。大人は彼らを穏やかに眺める。
兄王がふと提案した。
「城に戻ってこないか」
「日ごと通って、仕事はこなしているだろ」
「今は平時だから、それでも問題はないが。将軍がいれば城内の空気は引き締まる。あの子たちも十歳になった。そろそろ公の場を経験すべきだろう」
「ああ。しかし、二人がどう生きるかは当人に決めさせる。城の連中の反応もさまざまに違いないからな」
「れっきとしたお前の子供だ」
「むしろその事実が、周囲を困惑させる」
すると兄王は受け入れるような笑みを浮かべた。
「私にとって可愛い甥と姪だ。できるだけ力になる」
「頼む」
近付いてくる足音が聞こえ、イグナーツの娘が現れた。ミロシュ王に向かって、やや甘えた口調で言う。
「伯父さま、あちらに知らない花が咲いてたの」
「ほう、どちらに」
「向こうです」
小さな手に引かれて兄王が遠ざかる。
入れ替わりに、息子が木の枝をふたつ持ってきた。
「父上、稽古をつけて下さい」
「今日ぐらい休めばいいものを」
「こういう日でなくては、父上にじっくり手合わせ願える機会がありません」
「母上も笑っているぞ」
息子は戸惑いの表情をよぎらせたが、すぐに気を取り直した。
「普段どおりの私たちをお見せするのが一番です」
イグナーツは立ち上がって枝を受け取り、双方が構えた。
「どれ、成長したところを見せてみろ」
「参ります」
土埃が舞い、間合いを詰めた息子が打ちかかってくる。枝のぶつかる音が鳴り、父が押し返すと、相手は退いてふたたび構えた。
少年の澄んだ瞳、通った鼻すじ、まぶしい金髪。紛れもなく母譲りだ。
イグナーツは心の中で語りかけた。
オフェリア、見守っているか。お前の生きた証だ。流れは途切れることなく、未来へ続いていく。
イグナーツの元に身を寄せたオフェリアは、すぐに身ごもった。だが、それまでの幽閉の日々で体力がなく、かろうじて双子を出産したあとに息を引き取った。
生まれたばかりの子らが泣くのを、ひどく幸せそうな目で眺めた、その短い時間が、彼女にとって救いになっただろうか。
イグナーツは約束を守ることができなかった。
「お前が生を受けた日を、何度でも祝ってやる」と言ったことも。「末永く共にある」と誓ったことも。
許してくれ。
俺は、お前が遺したものを育んでいく。
いずれ天に召される日が来るだろう。それまで待っていてほしい。
俺は忘れない。
嵐の日、お前が勇気を振り絞って差し出した、その指先を。
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