1話

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「――すみません、同じ物をお願いします」 バーのカウンターで空のグラスを持ち上げて注文すると、紳士的な雰囲気のバーテンダーが「かしこまりました」とグラスを回収し、そのまま静かにシェイカーを振り始めた。 熟練感のあるその所作も、店内に流れるジャズピアノも、仄暗い落ち着いた照明も、騒がしくない店内も、どれをとっても大人が楽しむバーという感じだ。 「はあ……」 ちょっと油断すると、口から溜め息がこぼれ落ちてしまう。 こんな気持ちじゃなかったら、もっとこのお店の雰囲気もお酒も楽しめるんだけどな…… 「お待たせいたしました。――いらっしゃいませ」 注文したお酒が目の前に提供されると同時に、お客さんの入店があったらしい。入り口に向けられたバーテンダーの視線を、何となく私も追ってしまう。 「――小野田課長?」 入店してきたのが直属の上司で驚いていると、私の姿を見た課長も同じように驚いたみたいだった。 「本宮? ここで飲んでたのか?」 「ええ、まあ……」 「それにしては、1人みたいだが」 「1人みたいっていうか、1人ですけど?」 「今日彼氏とデートだって言ってなかったか?」 「え? 何でそれ知って……」 「あ、いや……悪い。お前が他の女性社員と話してるのが耳に入ってきたんだ」 「ああ……そうでしたか」 まさか課長に聞かれてたなんて思わなかったから、乾いた笑いしか出てこない。 よりによって何で今日?1人な理由とか話し辛いし気まず過ぎる。 「――隣いいか?」 「どうぞ」 「ありがとう。――すみません、いつもので」 隣の席に座ると、先ほどのバーテンダーに慣れたように注文する課長に、おや?となった。 いつものっていうことは…… 「課長、ここよく来るんですか?」 「ああ。会社からの帰り道にあるから、よく寄ってる」 へえ。課長とこのバー――うん、絵になるかも。落ち着いてて大人っぽいから、バーの雰囲気にも合ってるし。 「もしかして、女性と一緒にですか? デートとか」 「いいや、いつも1人だよ。そういう色っぽい話は、もう随分無いからな」 「課長モテそうなのに」 「モテてたらこの年まで独り身でいるわけないだろう」 苦笑しながら、ごく自然にバーテンダーからお酒を受け取った課長は、「お疲れ」と私のグラスに一度触れさせてからお酒に口をつけた。その一連の動作が余りにも様になっていて、思わず見惚れてしまう。 やっぱりモテないわけじゃないと思う。課長が鈍いか、周りがもう相手がいると思って諦めてるんじゃないかな。 今だって店内の女性から視線を感じてるもんね。課長は気付いているのかいないのか分からないけど。 「それで……今日デートだと言っていたお前は、何で1人で飲んでるんだ?」 「それ、聞いちゃうんですね……」 「……悪い」 私の表情で何となく察したらしい課長が、気まずそうに謝ってからもう一度グラスに口をつけている。 もっと早く察して欲しかったけど……もうこの際だし、聞いてもらっちゃおうかな。今まで課長にこんなプライベートな話とかしたことないけど。 誰かに聞いてもらったら、少しはスッキリするかも。 「よくある話だとは思うんですけど……少し聞いてもらっていいですか?」 「お前が話したいなら、いくらでも」 「ありがとうございます。えっと――課長もご存知の通り、今日本当はデートの予定だったんです。1ヶ月ぶりに」 ここ最近は仕事が忙しいって碌に連絡も取れなかったけど、仕事なら仕方ないかって思ってた。 「待ち合わせ場所に行ったら、彼氏の隣に全然知らない女の子が一緒にいたんですよ。その時点で何となく嫌な予感はしたんですけど……その女の子が妊娠したから別れようって言われてしまって」 漫画や小説ではよくある話だけど、現実で自分がそんな目に合うとは思わなくて、聞いた瞬間頭が真っ白になった。 幸いだったのは、私達がただの恋人だったことぐらいかな。婚約とかしてたら、色んな意味でもっとダメージは強かったと思う。それこそ、バーでヤケ酒なんて気分にもならなかったんじゃないかな。 「妊娠してるってことは、少なくとも3ヶ月ぐらい前から浮気してたってことじゃないですか。私には仕事が忙しいとか言ってデートどころか連絡すらまともに寄越さなかったくせに、その間この子と浮気してたんだって思ったら腹が立ってきて、怒りのままに彼を責めたんです。それぐらいの権利はあると思いません? なのに……」 ――お前に色気がねえのが悪いんだろうが。お前がもっと魅力ある女なら俺だってこんなことしてねえよ―― 「その時の私の気持ち分かります? 浮気相手は勝ち誇ったような顔してるし、3年付き合った彼氏に裏切られた挙句逆ギレされるし、まるで浮気したのは私が悪いみたいに言われて、あまりにも自分が惨めで……私に魅力が無くなって浮気するぐらいなら、もっと早く別れたいって言ってくれたら良かったのにって。そしたら、こんな虚しい思いしなくて良かったのに……」 項垂れた頭に暖かいものが乗せられて顔を上げると、課長が頭をゆっくりと撫でてくれた。 「そんな最悪な話、よくあるもんじゃ無いだろ。――お前は何にも悪くない。悪いのは、浮気の原因をお前に押し付けた元彼と、恋人がいる男を寝取った女の方だ。そんな奴のこと、さっさと忘れた方がいい」 優しい手つきで慰めてくれる課長に、そこで初めて涙が出そうになった。 「――本当は、分かってたんです」 「分かってた?」 「彼が私に飽きてきてるの。この半年ぐらいデートの回数も減ってたし、夜の……その、そういう事も減ってきていたので」 「……そうか」 「私の熱も冷めてきていたし、多分今回のことが無くても、近々別れてたんじゃないかなって……だからですかね。浮気されて捨てられたよりも、自分が女として否定されたっていうショックの方が大きい気がします。自分に色気があるなんて元々思ってないけど……それでもやっぱり、あそこまでハッキリ言われると辛いもんですね」 あはは……と、笑って誤魔化そうとしたら、ことのほか真剣な課長の視線とぶつかった。 「――確かめてみるか?」 「確かめる?」 「お前に本当に色気が無いのか、俺と確かめてみるか?」 「え……?」 冗談ですよね?――喉元まで出てきていたその言葉を、ゆっくりと飲み込んだ。だって、課長の表情も瞳もあまりに真剣だったから。 私が何も答えられないまま見つめていると、徐に課長がお金を払って立ち上がった。自分の分だけじゃなく私の分も合わせて――つまり、席を立つのは私もってことになる。 「あっ……」 「おっと。大丈夫か?」 そんなにお酒を飲んだつもりは無かったけど、歩き始めてすぐにふらついてしまった私を、課長がすかさず支えてくれる。 「そんなに飲んだのか?」 思いがけず耳のすぐ側で聞こえた課長の低めな声に、体が小さく震えてしまう。いつも会社で聞いている聞き慣れた上司の声なはずなのに……少し熱を感じるのはお酒のせい、だよね……? 「そのまま掴まっとけ。腰支えてやるから」 思わずぎゅっと課長にしがみついていた私の腰に腕が回されて、ガッチリと支えられた。 これは果たして現実なんだろうか…… アルコールのせいなのか、この状況のせいなのか、頭がボーッとしていてまともに働いていないし、現実味が全くない。 フワフワした夢見心地のまま、課長に腰を抱かれて促されるままに夜の街を歩いた。
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