『付き合ってくれないなら、死んでやる。』

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『付き合ってくれないなら、死んでやる。』 そう言いきった俺の事を彼はどう思ったのだろう。くっきりとした二重瞼、薄茶色の綺麗な瞳を縁取る長い睫毛が揺れている。彼が戸惑うのも無理はない。一応、幼稚園の頃からの付き合いとはいえ特別仲が言い訳でもない男から脅迫紛いの台詞を聞かされすぐさま「あ、はい。付き合います」とはならないだろう。だが、俺は本気だ。彼を目の前にし何度も練習したその言葉を発した瞬間刃渡り15センチの出刃包丁が両手の中で重さを増した。 「…俺もう既に結婚してるんだけどそれでもいいなら。」 「…え?」 春の夜風に乗るようにふわりと放たれたその言葉は、手にした包丁の何倍も軽いものだった。 「ちょうど今日、籍を入れたんだ。」 「け、結婚…?な、うそ、だって、」 予想だにしない返答に今度は俺が戸惑う番。彼の行動パターンは知っていた。毎日毎日飽きもせずその姿を追っていたから。家も知っている。職場も、大学四年生の春頃から付き合っている彼女が居るという事も、その彼女が俺と同じく彼と幼稚園の頃からの幼なじみだということも知っている。彼の事なら全部、全部知っている。けれど、、、けれど、一つだけ知らなかった。 「…そ、そんな素振り、全然っ」 「うん。今日決めて今日婚姻届提出してきたからね。」 「嘘だっ」 「嘘じゃないよ。君は“ソレ”で俺のことを刺し殺す気なんでしょう?そんな状況で態々くだらない嘘をつくと思う?」 可笑しい、そう言いながら唇の端をゆるりと吊り上げた。二十センチ以上高い位置にある彼の整った顔を凝視する。自分より体格は劣っていても鈍器を所持した一般男性を目の前に彼はいつも通り飄々とした態度のまま佇んでいる。 「…っ、そ、そんな、、、」 突如、深い闇の中に落ちた。彼の言葉が何度も何度も何度も頭の中でリピートされる。何だっけ、おれは何を、何をしに、今まで何を、、、、おれ、なにしてんだろ、、、 「だいじょうぶ?顔、真っ青」 「っ、」 「今決められそうにないなら、返事はまた今度でも良いよ。それじゃあ俺はそろそろ寝たいから帰るねー」 遥か彼方へ飛んでいた意識が舞い戻った時には目の前に居たはずの彼は姿を消していた。右手に握られた包丁は綺麗なままで、左手に握られた携帯には初めて正攻法で手に入れた彼の連絡先が新しく追加されていた。 『おやすみ、まおり』 彼のアカウント名を唖然と眺めていると、数秒後メッセージが届いた。バイブに驚き携帯を落としかけた。 慌てて開いた画面にはたった一言、簡潔な内容のメッセージ。 「…俺の名前、知ってたんだ」 小さく掠れた自らの声は夜風にかき消された。
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