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3.
「それで、やっぱりこっちのバイト、手伝ってくれる気にはならない?」
英恵に連れられてやってきた彼女オススメのレストランは、駅近のお洒落なイタリアンだった。大きなガラスの窓が大通りに面していて、外の植え込みにはハロウィンに向けたメルヘンな装飾が施されている。
私は食後のドルチェと紅茶を交互に口へ運びながら、英恵の提案に渋い顔をした。
《今はやる気ないかな〜》
英恵は大学に通いながら、イベントコンパニオンやスチールモデルの仕事をしている。美人でスタイルも良くて、その上親もお金持ちで愛されて育っていて性格もまっすぐな英恵。華やかな仕事は彼女によく似合っていたけれど、その一方で私にはこれっぽっちもしっくり来ない。
英恵の申し出を悩む素振りもなく断った私に、英恵もまた渋い顔をした。
「心配なんだよ紫乃、パパ活なんて。こっちの仕事なら安全に同じかそれ以上の金額稼げるよ」
英恵の言い分は最もだけれど、英恵は私を買い被りすぎている。それでも背に腹は変えられない。奨学金返済や家への仕送り、日々の生活費で私はお金に余裕がない。表舞台で煌びやかな仕事で大金が入るなら魅力的だけれど、残念ながら私にそんな価値があるとは思えなかった。
《私は英恵みたいに綺麗じゃないし、それに人前に出るのはちょっと》
私の家庭の事情を英恵は知っていた。それにパパ活なんかを始めた理由も。
最初は真面目にバイトしていた。週七回、大学終わりから時には朝方まで、週末は二つも三つも掛け持ちして必死に稼いでいた。しかしそれらの中のとあるバイト先の店長に「買われて」からというもの、私の生活は一変した。店長は口止め料として一回三万円をくれた。
今ならこの金額が相場より安くて舐められていたのだと分かるが、とにかく私は一瞬で大金を稼ぐすべを知ってしまった。そして一度知ってしまった蜜の味はなかなか忘れられない。
「紫乃、あんたなんでそこまでパパ活で稼げてるか分かる? 可愛いからだよ。あんたのその儚げな色素の薄い髪と瞳、小さくて華奢な身体、媚び売るわけでもなく淡々と接してくるあんたにおじさん達は欲情するの」
《そんな言われると照れるなぁ》
「褒めてるけど褒めてない」
英恵はドルチェのガトーショコラを小さなフォークで器用に切り分けながら眉を寄せた。
外の通りはまだたくさんの人が行き交っていて、ほとんどの人が急ぎ足で通り過ぎていく。私のいる屋内と違って寒そうだ。世の中にはこの透明なガラス一枚に隔てられているできごとというのが往々にしてあって、お互いに存在を認識していても全く別の世界を生きているということも多い。
英恵と、私のように。
「ね、前にもさ、酷いパパにやばいプレイ強要されたことあったでしょ? あんた身体中アザだらけにして……。命あってよかったよ」
英恵の言葉にそのできごとを思い出して、私は思わず身をふるわせた。
その辺で出会った一回限りの男だった。名前すら知らない。声をかけられ、言われるがままホテルについて行った。部屋に入ると男は豹変した。そこでシャワーも浴びる前から服を剥がされ、首を絞められて意識が遠のいている間に気付いたら挿入されていた。
我に返って暴れた私を、男は拳で殴りつけた。無理矢理な方向に腕を捻られ、至るところに噛み付かれた。口の中に血の味が広がり、全身が痛かった。
しかしおかしなことに、私はそのプレイに『目覚めて』しまった。
殴られ、噛み付かれた場所がじんじんと熱く、そして乱暴にされればされるほど、自分の中でも興奮が高まっていることに気付いていた。自分自身でも知らなかった性癖を暴かれた瞬間だった。無理矢理されているにも関わらず驚くほど自身を受け入れている私に、男は気を良くして最後は上機嫌に万札を数枚置いて部屋を出ていった。
パパ活は儲かるからやめられない。しかしそれ以上に、この残虐とも思える一回が忘れられなくなっているのは、英恵には秘密だ。
「紫乃……? ごめんね、辛いこと思い出させちゃって……」
震えて俯いた私に、英恵は勘違いしたようだった。不安そうに謝ってくる。私は慌てて首を横に振りスマホでメッセージを打った。
《ううん、大丈夫だよ。それにほら、私の身体、傷だらけでしょ? やっぱりコンパニオンなんて無理だよ》
そして服の袖をちらりとめくると、そこには無数の傷跡。誰が見ても、それが不慮の事故で付いたものとは思わないだろう。
私が自ら、自分の意志で付けた傷だった。
「……紫乃が嫌って言うなら無理強いはしないけど……。でも本当に気をつけてよ、ね?」
《うん、ありがとう》
彼女は優しい。育ちが良くて、心も健全で、人間の汚い部分などとは縁のない人生だったのだろう。そしてこれからも、彼女には光の中で笑っていて欲しい。高架下の地べたの寝心地など、彼女は一生知らなくていいのだ。
「あーあ、紫乃にもいい彼氏ができたら、もう少し自分を大切にしてくれそうなのになぁ。誰か気になる人いないの?」
ガトーショコラを頬張りながらごちる英恵に、私は自分の人間関係の中から候補に上がりそうな人物をピックアップする。とはいえ家と大学の往復以外はパパ達と会うくらいで、これといって特定の男性は思い浮かばない。
一人を除いては。
《そう言えば》
「え、なに、いるの?」
私の送ったメッセージを見て、英恵は意外そうに目を開く。
《強いて挙げるとしたら、だよ? 三年法学部の、水森先輩》
「えぇ!? あの『一万円男』!?」
一万円でなんでも引き受けてくれる男がいる。
私たちが入学してしばらくした頃。校内の噂話に敏い部類の女子たちから、まことしやかにそんな噂が流れ込んできた。
方々に顔が広く社交的な英恵も当然耳聡い質で、その噂は英恵を通してすぐに私の耳にも入った。
なんでも彼、水森癒月は、たった一万円払うだけでなんでもやってくれるらしい。
それこそ人も殺してくれるとか、くれないとか。
『まぁさすがにそれは尾ひれがついてると思うけどさ。ようするに、彼は色んなサークルとかから引っ張りだこなわけよ。文武両道、眉目秀麗、しかもコミュ力オバケ。彼も人がいいから、一万円で色んなところに借り出されてるってわけ。それが時々、肉食女子たちからのお誘いだったりもするらしいよ?』
私が彼について知っているのは、昨年の春に英恵から聞いたそんな噂程度だった。どこの大学にも数人はいるモテ男的な存在で、大して興味はなかった。
あの日、彼を偶然見かけるまでは。
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