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5.
いつもの通り、講義の後は時間の許す限り水森先輩の参加するサークル活動を見るため、私はキャンパス内の第一体育館にいた。私が体育館に着く頃には、ちょうどバスケットサークルがウォーミングアップを終え、二つのチームに分かれて試合形式での練習をスタートさせたところだった。
その中にはもちろん水森先輩もいて、私はすぐに彼を見つけてしまう。
迷いなく相手の隙を掻い潜り走る水森先輩。彼の柔和な、けれど鋭い眼差しは真っ直ぐにボールへと向けられている。ふわふわな明るい色の髪が動きに合わせて揺れていて、真剣な表情なのに、口元には余裕さえ感じる笑みを湛えている。
「先輩頑張ってー!」
「癒月くーん! こっち向いてー!」
周りで見学している学生達の中には同じように先輩目当ての女子も少なからずいて、ただの練習風景だというのに試合さながらの盛り上がりを見せているのもいつものことだ。
それは、水森先輩の出番が終わり、彼がメンバーとハイタッチをして体育館から外へと出ていくときだった。
二階のギャラリー席から練習風景を見ていた私は、一人の女子学生が彼に近付いたのを見た。彼女は彼にフェイスタオルとミネラルウォーターを手渡しながら、慣れたように腕を絡ませていた。他のギャラリーにいた学生も、何人かはそれに気付いたのだろう。
「あー、また誰か癒月に声かけてる」
「すごい人気だよね水森先輩」
「今日も活躍してたもんね〜」
男女問わず、あちこちから先輩に対する歓声や羨望の声が上がる。この光景はいつものことだ。私を含めた多くの女子学生が、自分も声をかけたいと思いながら、勇気を出せずにこうして眺めるだけだ。まるで漫画のように、あんな風に出待ちをして声をかけるなんて、自分に自信のあるごく一部の人間だけだ。
「……あの娘、よく水森君と親しげにしてるよね。例の『一万円』で彼女面してるらしいよ?」
「あー、なるほどね。講義も隣同士で受けてるの見たことあるし。くっついて座っちゃってさ」
こんな風に水森先輩の一万円の噂話を小耳に挟むのもよくあることだ。それでも私はつい耳をそばだてる。
「癒月君優しいからなぁ。勝手に好意を寄せられて可哀想だよね」
講義中の様子まで知っているということは、水森先輩と同じ法学部の三年生だろう。先輩が迷惑しているというのは随分と都合のいい自己解釈だと思うけれど、そう思いたい気持ちもよく分かる。
通称『一万円男』。そんなあだ名が着く根源となったこの噂は、果たして本当なのだろうか?
今思えばこの時の私は、たまたまどうかしていたのかもしれない。
私は時計を気にする振りをしながら席を立ち、先輩の噂話に花を咲かせる女子達の横を通り過ぎ、そして一階の体育館裏へ向かった。
体育館の裏手はサークル棟と直結していた。サークル棟の一階には更衣室やシャワー室、屋内トレーニングルームがあり、二階以降は各サークル部屋になっている。この時間帯はまだ講義中の学生もいれば、ゼミで研究室に篭っている学生もいて、一階に人の気配は少ない。
だからすぐに分かった。
男子更衣室の中から、ヒソヒソと囁く男女の声が一組、聞こえてくることに。
「ねぇ、あっ、待って、聞こえちゃうって……」
「誰かに聞いて欲しいと思ってるくせに」
「んっ、あ、やぁっ……」
荒れた息遣いと、不規則に聞こえる生々しい水音。私は咄嗟にドアノブを掴み、静かに少しだけドアを開ける。
「はぁっ……あっ……癒月っ……」
「なぁに?」
ふわふわな明るい色の髪。優しそうな穏やかな瞳。余裕そうに口角を上げる唇。
彼だ。水森癒月先輩。
女性が私に背を向ける形で、二人は激しく口付けを交わしていた。彼が相手の女性を抱きすくめ、片腕は後頭部、片腕は背中側から女性の服の中に差し込まれている。
相手は金髪でチカチカした服を着た派手な見た目の女子学生だった。
「あ、んっ……! ねぇ、聞いてってばっ……」
「いいよ、言って?」
私は動揺していた。
動揺? 否、これは興奮だ。アラレもない他者を盗み見る背徳感という、興奮。私は見つかるかもしれないと思いつつ、ドアをもう少しだけ開ける。
「あ、やばっ……そこいいっ……」
先輩の手が女性のスカートをたくし上げ、薄いレースの下着を下ろす。そこにぬらりと糸が引いたのを見逃さない。
「あーあ、こんなに濡らしちゃって。ヤラシイなぁ」
指に付着したそれを、先輩がわざとらしく女性の目の前に晒す。
「中、してほしい?」
「あ、ああっ……!」
女性はもう声を抑えることすら忘れているようだった。快感に酔いしれ髪を振り乱す姿に、私も心臓を鷲掴みされたように息が上がる。
「んん、イキそ……ぁ、イ、クっ……!!」
やがて女性が果てると、二人は再び熱っぽい口付けを交わす。
「ーーーー今夜零時、赤坂の『SLR』へ」
「たしかに受け取ったよ、一万円」
そんな囁きのあと途絶えたリップ音。二人の気配が動いたのを感じ、私は我に返り慌てて扉から離れる。
一瞬、彼の柔らかな瞳が私を捉えた気がした。
後ろからドアノブが回る音が聞こえた時には、私は既に廊下の角を曲がり二人の視界から逃れていた。
早足でサークル棟を後にする。心臓がうるさいくらい鳴っていた。
赤坂のSLR……。ソット・ラ・ローザ?
英恵が言っていたバーに違いない。
今夜……。
気付いたら私は、英恵にメッセージを送っていた。
《ねぇ英恵、この前言ってた会員制のバー、紹介してくれないかな?》
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