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6.
「身分証と、念の為保険証も確認させてください。初めてでしたら入会金が必要になります。紹介者の方は会員証をご提示ください」
「は、はい……」
英恵はブランド物の財布の中から、緊張したような面持ちで黒いカードを取り出していた。私は学生証と保険証を見せる。
「確かに確認いたしました。では、こちらの用紙に記入をお願いいたします」
その夜、時刻は二十三時、私は英恵と一緒に赤坂に来ていた。英恵に案内してもらい、店には何とかたどり着けた。分かりにくい路地裏にある上、目立つ看板も何もなく一人なら迷ってしまっていたところだ。
黒地にさり気ない金装飾の厳かなエントランスでは、黒服を着た大柄で強面の男性が両サイドに二人、石像のように立っていた。その二人の真ん中で作り物のように美しい女性がにこやかに受付をしてくれるというのは、なかなかに異様な光景だった。こちらが少しでも不穏な動きを見せれば、強面二人が客をつまみ出すということだろう。
入会金と言われ内心はドキドキしたが、幸いそれほど高くなく、しかもワンドリンク付きと案外良心的な価格設定だったのでほっとした。
「はぁ……何とか会員にはなれそうね。一限の私の紹介じゃ無理とか言われたらどうしようかと思ったわ」
英恵は小さな声で耳打ちする。しぶしぶといった様子だが、突然ソット・ラ・ローザに行きたいと言い出した私を心配してついてきてくれた。
「お待たせいたしました。では、店内へご案内いたします」
美女がタブレットに情報の入力を終えると、強面の一人が漆黒の重そうな扉を開けてくれて私達は入店を許された。
店内はかなり照明が暗く、人の顔を認識するのも危ういほどだった。はぐれたら困るだろうな、などと考えていたら、英恵の方から私の腕にしがみついてきた。
何度か「パパ」達にラウンジやクラブへ連れていかれたことがあるが、そういった店で流されているユーロビートとは異なり、バーというだけあって落ち着いたジャズが、しかしわりと大きめな音で流されていた。
「うう……やっぱりこういうとこ苦手……絶対変な男に声かけられるってぇ……」
腕を絡めながら、隣で英恵が泣き言を言っている。
《ごめんね英恵。私も無事入れたし、あとは帰っても大丈夫だよ?》
私はスマホを取り出してそう告げた。英恵を思いやっての言葉だったが、英恵は頬を膨らませて憤慨していた。
「なぁに言ってんの!? こんな悪魔の巣窟に紫乃を一人で置いていけるわけないでしょ! 私には紹介した責任があるんだからっ」
そう言って途端に背筋を伸ばした英恵に、私は苦笑して彼女とは逆に肩の力を抜いた。過保護な母親とはこんな感じだろうか?
こそこそ話しながら、意外と奥行きのある店内を進む。暗闇に目をこらすとホールの真ん中には小さなステージのようなものがあって、それを取り囲むように置かれたテーブルは何組かの客がいた。ステージは何に使っているのかと英恵に聞いてみたが、彼女も知らないようだった。
「カウンターにしよう。いざという時、お店の人が近い方が安心だし」
英恵の提案で、私達はカウンターの中でもバーテンダーの目の前にある席を選んで座った。すぐにコースターと灰皿、そしてメニューが用意される。
「お嬢さんは初めましてですね。ようこそSLRへ、非日常を楽しんでください」
そう言って名刺を差し出してきたのは、カウンターの中にいた一人の男性。名刺にはローマ字で『Ryu』と書かれていた。
「私はここの黒服、件バーテンダーをしているリュウです。以後お見知り置きを。そちらのお嬢さんは確か……英恵様、とおっしゃいましたか。お帰りなさいませ」
「ど、どうも……」
私への挨拶の後、きちんと英恵にも頭を下げた。名前を呼ばれたことに、英恵は面食らったようだった。薄暗い室内にこれだけの客がいる中、前回すぐに帰ったという英恵まで覚えているというのは脅威の記憶力だ。私は驚いてリュウさんの顔を見つめた。
カウンター内はカクテルの他にもフード類を作るキッチンがあり、照明も明るいためスタッフ達の顔がよく見えた。彼は歳の頃は三十前後、黒髪をきっちりとオールバックに整えていて、スラリとした華奢な身体に黒いネクタイとジレ、それに白シャツのコントラストが決まっていた。
浮かべた笑顔とは裏腹に、店内の隅々まで幾分の隙もなく気を張りつめているのが雰囲気で分かる。いかにも夜の世界で働く黒服といった様相だ。
《よろしくお願いします、私は紫乃です。こういうお店に来るのは慣れなくて、ちょっと緊張します》
私はスマホにそう打ち込んで画面を見せながらぺこりと頭を下げた。もし声が出ていたら盛大に吃っていただろうというくらい、緊張しているのは本当だった。英恵も何度も足を組みかえたり忙しなく髪をいじったりと落ち着かない様子だ。
リュウさんは一瞬不思議そうな顔をしただけですぐに私が話せないことを悟ってくれたらしく、私が差し出したスマホの画面の文字を読み終えると場を和ませるようにまた笑った。
「初めはみんなそうですよ。緊張していると酔いが回りやすい……お酒は弱い方が良さそうですね。もしよろしければ私がオススメのものをお作りしますよ」
一応眺めたメニューのカクテル名は何が何だか分からず、結局私達は揃ってリュウさんのおすすめをもらうことにした。カクテルが作られるのを待つ間、顔を寄せ合って談義をする。私はスマホだけれど。
「……それで、どうするの紫乃? 本当に今日水森先輩がこの店に来るの?」
そう、私がこの店に来たかったのは、水森先輩に会うためにほかならない。そのために英恵に迷惑もかけたのだから、絶対に会わなければという謎のプライドのようなものまで湧いてくるから不思議だ。
《間違いないよ、だって今日水森先輩と女の人が話してるの聞いたもん。『SLRで会おう』って。それってここのことでしょ? リュウさんもそう呼んでたし》
「それは分かったけど、こんなところまで水森先輩を追いかけてどうするっていうのよ? 相手は女連れなんでしょ?」
《たしかに……》
「はぁっ? もしかしてそこまで考えてなかったってこと!? 馬鹿じゃないのっ?」
英恵の言ってることはもっともだ。女性を連れている相手を待ち伏せしてどうするつもりだったのだろう。校内で話しかける勇気がなくて、勢いでここまで追いかけてきてしまったが、これではただのストーカーと変わらない。
《でも、連れてるのは一万円もらった相手なの。ていうことは、たぶん彼女とかじゃない。だから》
「だから?」
《私も払う》
「は?」
《払うの、一万円》
「はぁ? 本当にどうしちゃったの紫乃ぉ〜……」
私の突然の宣言に、英恵は面食らったようだった。大学一年生の初講義からずっと仲良くしてくれている英恵は、いつも私のことを心配してくれている。そして私が、一度言い出したら聞かない頑固な性格ということも知っているはずだ。いつも気を揉ませて申し訳ないと思いつつ、一度飛び出した言葉は引っ込みがつかない。
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