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5話
桜が街の木々を彩るとともに、僕らは進級した。友人の一人とはクラスが別れたが、ちよりは相変わらずいちばん前の席で授業を受ける。
休日には、川原や海辺に出かける。
たまに渡り鳥を見かけると、ちよりはビクッとしてそちらを凝視した。自分のいた群れでないと分かれば、ひどく僕に甘える。
彼女へそっと声をかける。
「帰ろうか、ちより」
「うん。ヒロのおうちに帰る」
自転車で走っていると、鳥かごの中のちよりがピイピイ鳴いた。まるで『いま』を惜しむように歌っている。それを聴くと、胸が締めつけられる。
どこかの群れを見た翌日は、ちよりは鳥かごから出たがらない。調子が悪いわけではない、と分かれば、僕は相手を促す。
「ほら、一緒に学校へ行こう。ちよりも先生の話が聞きたいだろう? 昼休みには、みんなとつまらないお喋りをするんだ」
すると、鳥の彼女がこちらの手に飛び乗る。
「わたしが行くと、ヒロも楽しい?」
「もちろん。まだ桜がキレイに咲いているよ。眺めながら登校しよう」
ちよりは床に下りてニンゲンの姿になり、ニッコリ笑った。
彼女は数学の授業のときだけ、たまにこちらを振り返って困った顔をする。家で教えているので、算数の力はつきつつあるけれど、さすがに高校の数学は厳しいようだ。
それでも、先生の言葉に真面目に耳を傾ける。
いつの間にかひらがなを覚えて、レポート用紙にシャーペンで、子どもみたいな崩れた字を書く。それでも、一応は読めるのだから大したものだ。
断片的に書く言葉で、もっとも多く登場するのは『ひろ』。見るたび僕は照れた。
テスト勉強をする時期、ひらがなの絵本を買ってプレゼントした。ちよりは苦労しつつも、ゆっくり読んでいった。
勉強がひと段落したとき、ねだられて読み聞かせると、耳からのほうが覚えがいい彼女は、スラスラと復唱した。絵本を開いていなくても、ところどころをそらんじる。
逆に、僕は英語の発音をちよりに確認する。教えてくれるとき、ちょっと得意げにする彼女がかわいい。
一日一日がすぎるほど、一分一秒の大切さは増した。
* * *
ある日、古文の授業を受けていたとき、ちよりがいきなり席を立った。先生や生徒が驚いて視線を向ける。
彼女はこちらを振り返り、「ヒロ……」とつぶやいて、教室を飛び出した。
僕も立ち上がって先生に告げた。
「具合が悪いので保健室に行ってきます」
そのまま駆け出したので、まったく説得力はないが、この際どうでもいい。僕は先を行くちよりを追った。
彼女は階段をどんどん上り、屋上の立ち入り禁止のロープをくぐる。鍵がかかっているはずのドアを開いて、外に出た。
僕は息を乱しながらあとに続く。そしてフェンス際に立つちよりに歩み寄る。
彼女の視線を辿ると、離れた電線に三十羽ほどの鳥が止まっていた。揃ってこちらを眺めている。
ちよりの瞳は潤み、体が震えた。僕は声をかける。
「もしかしてあれは――」
「群れのみんな。わたしがここにいることが分かったみたい」
「……そっか」
毎年、同じようなルートを辿るとしても、再会できるかどうかは分からない。が、それは杞憂ですんだ。
僕は複雑な気持ちで笑った。
「よかったね。これで帰れる」
「うん。でも……」
ちよりはこちらの胸に飛び込んできた。僕は小柄な彼女を抱きしめる。ちよりが腕の中で泣いていた。
「ヒロ……わたし、どうしたらいいの?」
行かないで、と言いたい。もしかすると彼女は従うかもしれない。ちよりは僕と離れたくないと思っている。
けれど決めたんだ。ちよりを群れに帰すと。
奇跡的に状況は整った。僕は彼女の背中を押してやらなければならない。
「ちより、帰るんだよ。こんなふうに戻れる鳥なんて、ほとんどいない。だから行くんだ。僕は君を守った。ぜんぶ今日のためだ。ちよりだってがんばってきただろう?」
「みんなのところに帰りたいよ。でも、ヒロと離れたくない」
「分かってるよね? この冬はなんとか越えたけど、つぎは夏がやってくる。季節に合わせて土地を移動するのが、君にとっていちばんなんだよ。これからは、みんながちよりを守ってくれる」
「ヒロは……わたしがいなくなっても平気?」
僕は言葉に詰まった。そんなわけないじゃないか。
そばにいてほしい。鳥かごに閉じ込めたいと考えるほど。もしかしたら、ちよりも僕にそうしてほしいのかもしれない。
どっちを選んでも、彼女は苦しむ。僕はかわいそうなことをしてしまった。
彼女は本来の生き方に戻る。僕の役目は終わったのだ。
「ちよりが群れに帰ることに対して、僕がなにも感じないと思ってるの?」
「……ごめんなさい。怒らないで、ヒロ」
「ちよりが大切なんだ。そして、君が僕を特別な存在だと思ってくれてると知ってる。怖くないよ。僕らは離れてもそばにいる」
すると、相手がこちらを見上げた。
「わたしのこと、覚えててくれる?」
「これからもちよりを想う。楽しいことがたくさんありますように。危ない目に遭いませんように、って」
ちよりの目からさらに涙があふれた。
「わたしも、ヒロが幸せになりますように、ってまいにち祈る!」
「ちよりが願ってくれたら、絶対に叶うよ」
僕は笑って、相手の頭をくりかえし撫でた。彼女はなおも言いつのった。
「ヒロはわたしの命の恩人なの。ありがとう。怪我を治して、寒さから守って、『大丈夫だよ』っていっぱい教えてくれた。なにも恩返しできないけど……わたしらしく生きていくね」
恩返しができないだって? バカだな。生き物すべてに、相手を癒やす力があるって教えたのは君じゃないか。
そばにいるだけで、僕にどれだけの光とぬくもりをもたらしたか。
僕は大したことなんてしていない。それでも彼女にとって、かけがえのない日々だったのなら。
つたなくても、お互いの精一杯。仮にこの数ヶ月をなんどループしても、僕は同じように生きる。正解かどうかは分からない。でも、これが自分なのだ。
「ちよりに教わったことがたくさんある。君を知らなかったころの僕は、もうどこにもいない」
「ヒロにとって、わたしは特別?」
「いちばん大事な存在だよ」
「嬉しい……」
彼女がこちらの胸に顔を埋め、僕らはしっかり抱き合った。こうしていると、心が澄んでくる。
ただただ、出会えてよかった。
ちよりは落ち着いたあと、体を起こしてくすぐったそうな笑みを浮かべた。そして、背中から翼を出す。
僕は名残惜しくて、彼女の頬に手を添え、互いの額をくっつけた。
「もう怪我しちゃダメだよ」
「ヒロも勉強、ムリしないで」
間近で笑い合ってから、ふわりと離れた。ちよりが瞳を潤ませつつ、明るい笑顔を浮かべる。
「ありがとう、ヒロ! バイバイ!」
鳥の姿に戻り、フェンスをよけて飛んでいく。僕はそちらに向かって声を上げた。
「さよなら、ちより!」
彼女はそのまま去ったが、言葉は届いたはずだ。僕は自分に言い聞かせるように、もういちどつぶやいた。
「さよなら、ちより……」
電線に止まっていた鳥が一斉に飛び立ち、ちよりを呑み込んで、南のほうへ去っていった。姿が見えなくなっても、僕はずっとそちらの空を眺めていた。
* * *
ちよりが、いなくなった。
家族もクラスメイトも教師も気付いていない。彼女はここにいたのに。言葉を交わすこともあったのに。
ちよりのことを覚えているのは、僕だけだ。
いまごろ仲間に囲まれて、笑顔になっただろうか。淋しがっていないだろうか。
笑ってほしいし、ときにしんみりしてほしいと考える、僕はわがままだ。
休日、たまに川原や海岸でぼんやり過ごす。
心を抑えつけたり焦ったりするのはやめようと思った。切り替えるために、時間を必要としてもいいだろう。
ダッフルコートやマフラーをしまいこむ。
鳥かごを処分することはできなかった。
学校で授業を受けて休み時間に入ると、ちよりが駆けてきて「ヒロ!」と呼びかけてくる気がする。
どうしてもダメなときは、屋上のそばで感情が落ち着くのを待つ。頭に浮かぶ彼女は必ず笑顔で、僕を励ましてくれる。
『ヒロが幸せになりますように』
ちよりが精一杯に祈っても、僕がいつまでもこんなんじゃ、彼女の想いをムダにしてしまう。
あわてなくていい。でも、すこしずつ。
『ちよりに楽しいことがたくさんありますように』
そう願うとき、僕の心はじわりと癒えた。
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