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僕の普通の朝
蒸し暑い九月の朝。目を覚ました僕は何の気なしにテレビを点けた。
名前も知らない芸能人のスキャンダル。場所も知らない町の新店舗オープンの宣伝。見た目も知らない怪人が起こした襲撃事件。
モニターの向こうは、いつもと変わらないニュースばかり。でも自分の周りはいつも通り平和、とはいかない。僕は溜め息を吐きながら外に出た。
この3階建てのアパートに越してきて、そろそろ半年になる。ここに越してきてから、不可解な事ばかりだ。
顔を合わせたことも無い下の階の住人はしょっちゅう狂ったような金切り声を上げているし、上の階の住人は毎日同じ時間に暴れまわっている音が聞こえる。
内見に来たときはそんなことなかったのに、ゴミ捨て場の前の塀は通るたびに落書きが増えているような気がする。今日は一段と酷い。
落書きは元々壁に貼られていたであろうポスターを埋め尽くさんばかりに広がっており、ポスターに描かれたヒーローの顔が潰れて見えなくなってしまっている。
「この近辺怪人出現報告地域!怪しいことがあったらヒーロー管理局に連絡しましょう! 1/25日掲載」
辛うじて読める文字に、何かあってから連絡しても遅いだろ、と内心で突っ込む。
管理局ももっとヒーローを増やして、パトロールを強化してくれればいいのに。ついでに怪人よりも迷惑な、このアパートの住人達にも注意してほしい。
自分はなりたいとは思わないが、募集をかければヒーローになりたい奴はごまんといるだろう。
「でも、適正試験とかあるのかなあ……ふふ」
子供の頃テレビで見た色とりどりのヒーローたちが、戦闘形態のまま机について試験問題を前に頭を捻っているのを想像して、何だか可笑しくなってきた。
一人で笑っていたら、別の住人がごみを捨てに来たので慌てて口を噤む。見覚えのある顔と服装。お隣さんだ。
夏の陽気の抜けきらない、9月の容赦ない朝日に目を細めながら伸びをしているお隣さんに声をかける。
「十和君、おはよう」
おかしな住人たちの中で唯一普通な存在が、お隣さんである彼、奥瀬十和君だ。僕が越してくるよりひと月ほど前に越して来たらしい。
正確な学年は聞いていないが、近くの大学に通う学生。音楽が趣味なのか、薄い壁を通して色々な楽器の音が彼の部屋から聞こえてくることがある。
僕が引っ越してきたときに、唯一挨拶に来てくれた子で、顔を合わせれば挨拶したり、困ったことがあったら互いに頼る程度の関係が続いている。
まあ、それ以上の付き合いはないし、普段の生活についてもあまり知らないんだけど、とても優しい子で僕は弟のように思っているのだ。
尤も、このアパートで他の住人と会話するのは怖いという理由で、消去法的に親しい関係に収まっていることは否めないが。
「お早うございます、松島さん」
僕に気づいた十和君はぺこりと頭を下げた。
今時の若者は冷たいというが、彼はよく漫画やドラマに出てくるような、「気のいいお隣さん」を絵に描いたような気持ちのいい青年だ。
「今日は早いね」
「ああ、あんまり寝てないけど目が覚めたからもう起きちゃおうと思って」
言いながら十和君は眠そうに目を擦った。
「夜中出かけてたの? この辺前に怪人出たらしいし、気を付けた方が良いよ」
「ああ、そうでしたね」
「ま、噂の限り大したことない怪人だったらしいけどね。ヒーローが来たら戦わずに逃げたらしいし……その時ちゃんと追いかけて倒してくれたらよかったのにね」
「へー。でも昨日は家にいたので大丈夫ですよ。何というか、免許取るために勉強してたら夜更かししちゃって」
十和君は少し気まずそうに目を逸らした。夜更かししたことを恥じているのだろうか、大学生ならそれくらい日常茶飯事だろうに。
「車の免許?大学も近くだし、まだ要らないんじゃないの?」
「色々持ってないと将来生活に困りそうなんでねぇ」
「しっかりしてるなあ、寝る時間確保できてる? 最近ギターの練習もしてるでしょ?」
純粋に心配でそう訊くと、十和君はますます気まずそうに俯いた。
「え、聞こえてました? すみません、うるさくて眠れないでしょ?」
「いや全然! 凄く上手いし、子守歌代わりになるからむしろ歓迎っていうか……あんまり気にしないで好きに練習して!」
「……そうですか、なら良かったです」
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