3人が本棚に入れています
本棚に追加
/58ページ
あたたかな風が新緑色の木々をそっと揺らす。木々の隙間から差し込む木漏れ日はただただ優しい。
濃淡の異なる緑の木々に、黄色や白、薄桃色の柔らかな花々。風に乗り、しっとりと甘い香りが漂った。
森の中、一人の男を乗せたハンモックが音もなく揺れた。
やがて。
花の香りに導かれるように、エルフの青年は目を覚ました。重い上体をゆっくりと起こし、大きなあくびの後に立ち上がる。
未だはっきりしない意識の中、男は空を仰ぐ。どこか色彩の薄い青空に、白く柔らかな雲が散在していた。その空の下、風に揺れる木々の緑は生命力に満ちている。樹木本来が何かの力を宿している――あるいは、本来の姿であるように。
知らない場所だ。彼はそう思った。
少しでも情報を得ようと思案していると、木の根の花が目に留まった。スズランに似た白い花が、幹に寄り添うように咲いている。
男は考える。周囲に生える木々に対して、この花は存在があやふやだ。周囲に溶けてしまいそうな――あるいは、瞬き一度で消えてしまいそうな。生命があるのかないのか判らない。この花は本当にここにあるのだろうか。この花は生きているのだろうか。
不信感を抱きながら一歩踏み出した男だが、二歩目が前に出ることはなく、その場で立ち止まる。
……今、自分は本当に歩いたのか?
足下を見る。足は、ある。試しに右足を前に出してみた。脳の指示通り、きちんと動く。
しかし。男は眉を寄せた。
今、自分の足でこの場に立っている。見たとおりだ。間違いはない。
間違いはないのだが、彼にはその実感がなかった。
「なんだ、これ……」
思わず自分の手のひらを見る。なにも変わりない肌の色だ。
今、自分は手を見ようとして腕を動かした。間違いない。試しに指を動かしてみる。すると、そこにまた同じ違和感を覚える。
しばし繰り返し、そうしてようやく理解した。
体の感覚が遠いのだ、と。
彼は周囲を見回した。木々の存在ははっきりとそこにあり、そのどれもが生命力に満ちている。ただ呼吸をしているだけで、体内に溜まった不純物が取り除かれるような、どこか神聖な空気さえあった。
けれど自分は、自分の存在は、場違いであるかのような。端的に言えば、生きた心地がしなかった。
「生きてない……か」
最初のコメントを投稿しよう!