Day1 目覚め

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 事情は飲み込めないが、自分は霊なのだろうか。死んだ衝撃で前後のことを思い出せないだけで。そう考えれば、よく分からない事象も納得できる。慣れない感覚だが、死んだ以上は受け入れるしかないだろうか。彼はため息をついた。 「目を覚ましましたか」  澄んだ声が響いた。女の声だ。鈴の音のような声だが、そこには確かな意志が宿っていた。  その声に彼は振り返る。腰まである長髪に、透き通るような白い肌。エルフである象徴の長い耳。緑色の瞳の色は、魔力の強さを表すように深く濃い。  一目見た途端、彼は驚きに目を見張る。彼女の存在はひどく神聖で、近寄りがたい印象すら覚えた。 「私の声が聞こえますか?」  あっけにとられている彼へ、彼女は問いかける。  その言葉に、彼はしかめっ面で頷いた。 「よかった。なにも聞こえないのかと思いました」  彼女はほっと安堵の色を窺わせ、微笑した。  ……感情らしい感情は見える。無愛想という印象はないが、見える感情の幅は狭い。纏う雰囲気も含め、つかみ所のない奴だと彼は思った。 「あんたは?」 「ライネ。名が必要であれば、そうお呼びください」  ライネはその言葉だけを彼に伝えた。  からかうわけではない。隠すわけでも、嘘をつくわけでもない。ただそこにある花の名を口にするように、ライネの声は淡々としていた。  妙な自己紹介だな、と彼は思った。しかし、そのことについて詮索する気は起きなかった。それだけに構うほど暇でもないからだ。 「分かった。そう呼ばせてもらう」 「ええ、そうしていただければ」  軽く頷くと、相づちのようにライネは微笑した。  自分が名前を尋ねたのだ、聞かれなかったがこちらも名乗るべきだろうか。彼は腕を組む。  前方の木々から、音もなく葉が二枚散った。それを何の気なしに見ていた彼の思考が突如止まる。遅れて乾いた風が抜けた。  自分の名前が分からない。  どうしてここに来たのかも、今まで何をしていたのかも、子供の頃の記憶だって。何もかも。なにもない。なにも。頭の中が、記憶が、存在しないかのように真っ白だった。  自覚した途端、薄かった体の感覚が曖昧さを増してゆく。やがて唯一の頼りだった視覚も曖昧になり、色の境目が消えていく。  なにもかもが分からないまま、彼の意識は落ちた。
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