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彼は厳しい顔でライネを凝視した。ライネはその瞳を受け止める。彼女の緑の瞳は揺るがない。自分の言葉に確かな責任を持っている、強い色だ。
彼は諦めたように息を吐く。どうやらライネという女は軽率に冗談を言う人物ではないようだし、嘘を織り交ぜるしたたかさも今のところはないらしい。
けれど、じゃあなんで自分は。
彼は静止したまま、己の体のあちこちに意識を向ける。が、相変わらずぼんやりとしていてよく分からない。今、特別痛むところはなかった。先日見た手や足には特に外傷はない。怪我が要因とは考えづらい。強いて言えば頭、自分の記憶がないことくらいだ。頭痛はないが、頭の病気かなにかだろうか。
「頭か精神でもやったのか、俺は」
「いいえ」
じゃあなんで、自分には記憶がないのか。
彼は視線を落とす。湿気を含んだ灰茶色の土に、己の影が落ちていた。
「……そうですね」
ライネは自身の左手に魔力を込めた。すると、何もなかった空間に透明な水瓶が現れる。五分目まで水が満ちているそれは、彼女が手に取るとわずかに波打つ。
「これを見ていただけますか」
その声に彼が顔を上げる。同時に、ライネは水瓶の底に触れた。
「これは大切な水を運ぶための水瓶です。もしこれにひびを見つけてしまったら、あなたはどうしますか?」
突然の問いに彼は面食らうが、その問いに付き合うことにした。どうせ今の自分にはなにもないからだ。
「……そうだな」
ライネの手にした水瓶を熟視し、彼は腕を組んだ。
水瓶を満たす水はとても透き通っている。棄てるという選択をためらうほどに。その水を受け止める瓶は、持ち手の金の装飾が目を引く美しさだ。器自体もなだらかな曲線を描いている。中身にも器にも同様の価値が感じ取れた。
「水が入る前であれば別の瓶を使う。水を入れてしまった後なら、別の瓶に移し替える」
「では、この水瓶である必要があるとしたら?」
その言葉に、彼は一瞬言葉を詰まらせた。しかし、答えは単純だ。
「そうだとしても、中の水は大切だ。いったん別の器に移して、修繕してから使うようにするしかないだろうな」
彼の問いに、ライネは静かに頷いた。
「そうですね。水も、その器である水瓶もとても大切なものです。水瓶の修繕のためには、一度中の水を空にしなければならない。けれど、その水を無碍にすることもできない」
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