たまごの一生

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目が覚めたら、ベッドから出ることもしないで、テレビのリモコンのスイッチを入れた。 「わっ。」と大きな音にびっくりして、音量を下げる。 昨夜見ていたドラマのテレビの音が聞こえにくくて、画面の数字が23になるまで上げていた。 でも、どうしてか朝にテレビを点けると、その23では、ドキリとするぐらいに大きな音に聞こえるのだ。 毎朝のことだ。 18まで下げたら、ホッとして、まだ眠ることが出来そうだ。 いや、ここで寝たら、最悪だ。 「タクミっ。まだ、いるよ。」 キッチンからケイコが叫んだ。 「そりゃ、いるだろう。生まれるまでいるに決まってるさ。」 そう言いながら、タクミは、ベランダのガラス戸を開ける。 マンションのベランダの端の排水溝のところに、鳩が巣を作って、うずくまっている。 タクミは、パタパタと、スリッパの音を、わざと立てながら、かけっこをするみたいに、足踏みをした。 だが、鳩はピクリとも動かないで、排水溝のところで、うずくまっている。 その音を聞いたケイコが、叫ぶ。 「そんなことをしても無駄だよ。なんたって、母は強いんだから。」 タクミは、鳩を見る。 「あんたは、エライね。今日もよろしくな。」 鳩はタクミを、ジッと焦点をずらさずに、ただ、見ていた。 こんな状況になったのは、1週間ほど前の事だった。 いつもベランダの手すりに鳩が来ては止まり木のようにしてとまっていた。 そして、クークーと鳴いていたのである。 その度に、タクミもケイコも、ガラス戸を開けて、鳩を追い払っていたのだ。 いや、別に鳩が憎い訳じゃない。 ただ、我が家のベランダを気安く鳩に許していたなら、ベランダが鳩のフンだらけになってしまう。 一軒家なら、それでも良いだろうけれど、マンションの場合は、隣や下の階の人に、迷惑がられるのは解っていたからだ。 そんな状況が、毎日のように続いていたのだが、気が付くと、鳩が何か口に咥えていることに気が付いた。 小枝を口に咥えているのだ。 それでも、その時は、ああ、小枝を口に咥えているな、ぐらいにしか考えていなかった。 それで、ある休みの日にベランダに出ると、排水溝のところに、その枝が積んであって、巣を作っていたのだ。 あ、こいつ、ここを自分の家にしようと狙っているんだなと思ったが、その時は、何かの用事で、そのままにしていたのだが、それが間違いだったことに、次の日に気が付く。 鳩は、巣を作って、そこに卵を産んでいたのだ。 そして、その上に、うずくまって卵を温めている。 こうなったら、もう鳩はびくとも動かない。 タクミが、ベランダで、鳩を追い払おうと、もう鳩のすぐ近くで、スリッパで大きな音をたてても、鳩の目の前で手を叩いても、びくともしないんだ。 「ねえ、どうする?」 ケイコは、鳩が、卵を産んだと知った時に言った。 「どうするったって、もう、生んじゃってるんだし、それを追い払うのも、可哀想な気もするよね。」 「そうよね。ここで生まれたんなら、もう、生まれた鳩は、あたしたちの子供にしちゃう?ほら、あたしたち子供いないから、面白そうじゃん。生まれたらさ、まず、最初は、、、やっぱり名前付けなくちゃね。ねえ、ポッポちゃんっていうのは、どう?ベビー服も着せちゃう?ねえ。」 「あのさ、生まれた鳩の赤ちゃんは、鳩の赤ちゃんだからね。僕たちの赤ちゃんじゃないよ。」 「そんなの知ってるよ。この状況を楽しんでるだけじゃない。もう、タクミは、いつも詰まんないな。」 「それよりさ、この家で鳩の赤ちゃんが生まれたら、刷り込みっていうのかな、この家を自分の家だと思いこんじゃわないかな。そうなったら、大変だよ。ずっと、鳩が住みついちゃうんだよ。それで、友達とかも連れて来てさ。」 「ほんとだね。そりゃ、大変だわ。それよりさ、さっき鳩の赤ちゃんの名前、どうしてポッポちゃんだか解る?」 「ハトポッポだからでしょ。」 「正解っ。へへ、どう?」 「誰でも思いつく名前だよ。それに、なに、まだそれ考えてるの。」 「だって、我が家の今年の一大事なんだからね。」 そう言って、しばらくケイコは、鳩を見ていた。 そんなことがあったのが、1週間まえのことだったのだ。 それ以来、朝起きると、ベランダの鳩の様子をみることが日課になっていた。 「ねえ、そんなにバター塗ったら、身体に悪いんじゃない。いつも思うけど。」 「何言ってるの、脂肪は身体に必要な栄養素なんだよ。脳みそだって、油で出来てるんだってさ。だから、バターはたっぷり塗らなきゃ。それに、ほら、トーストを斜めにしたら、ぽたぽたとバターが落ちてくるでしょ。このぐらい塗るのが美味しいんだよ。」 「あーあ、タクミの動物的な勘は、もう狂ってるみたいだね。」 「なに、それ。」 「あのね。鳩は、偉いのよ。誰にも教わらないのに、食べられるものと、食べられないものが解るんだよ。偉いと思わない?この前もね、道端で、落ちてた何かを、首を傾げながら食べてたよ。解るんだよ。一応、首を傾げて、どうだろう見たいな仕草はしてたけどさ、ちゃんと判断して食べたんだ。っていうか、鳩の主食は何なのかな。」 「鳩は、虫とか食べるんじゃないの?それに、首傾げてたっていうけど、考える仕草じゃなくて、ただの癖でしょ。」 「虫か、、、、。気持ち悪いね。どうして、あんな気持ち悪いもの食べなきゃいけないのかな。」 「仕方ないからじゃないかな。それに、人間だってさ、考えてみたら、気持ち悪いもの食てるよ。ほら、牛肉だって、ジッとさ、こうやって、ジッとみたら、血が浮いているし、案外気持ち悪い形と食感してるよ。それに、その元の牛を想像してみてみて。あの牛から切り取ったんだよ、牛肉はさ。気持ち悪いと思わない?」 「気持ち悪いかなあ。美味しそうに見えるけど。タクミって、変だね。」 「じゃ、ほら、玉子は、どうよ。あのカラザって、気持ち悪いでしょ。」 「タクミが、カラザが嫌いなのは、知ってるよ。だって、結婚してから、もう30年もカラザを取らされ続けてるもん。」 「あれ、おかしいでしょ。変でしょ。気持ち悪いでしょ。あれは、一体、何なんだ。」 「そう言われれば、何なのかしらね。あれ、ひよこに成る時に、ひよこのどこになるんだろう。っていうか、ねえ、タクミさん、白身は、ひよこのどこになる訳?黄身は、ひよこのどこになると思う?」 「うん。それ疑問だね。でも、どう考えたって、黄身がひよこになるはずだよね。だって、真ん中にあるもんね。」 「じゃ、白身は?」 「ひょっとしてだけど、黄身の栄養なのかな。」 「やだ。じゃ、黄身は白身を食べちゃうってこと?」 「食べちゃうっていうか、、、。でも、そういえば不思議だよね。黄身がひよこになるとしても、黄身を見たことがあるけど、それでもって、ひよこも見たことあるけど、その途中って見たことないよね。あのドロドロとした黄身が、いつか、その1部に塊が出来るんだろうね。その塊って一体、何なのだろう。頭が先にできるのだろうか。いや、そもそも、あのドロドロの、どこかに、頭になるドロドロと、羽根になるドロドロと、足になるドロドロが、別々にあるのだろうか。やだ、僕は、頭になりたいって、いや、僕が頭になるって、ドロドロ同士でケンカしないのだろうか。不思議だね。」 「でも、ドロドロは、どこを取っても、ドロドロだよ。だって、玉子を割っても、黄身は、あれは、1個のものだもん。あの玉子の中で、何が起こってるんだろうね。わあ、わあ、嫌だ。もう考えたら、玉子食べられないよ。ねえ、明日から、玉子焼き作んない。あたし、やだ。」 「ちょっと待ってよ。玉子焼きぐらい作ってよ。ねえ。」 「だって、あたしたち気が付かない間に、ひよこのドロドロを食べてるのよ。そういえば、鶏の皮もブツブツしてて、気持ち悪いよね。そうだ、あの鶏肉も、ドロドロから出来たんでしょ。気持ち悪い。もう、玉子料理も、鶏肉料理も、あたししない。」 それ以来、食卓に、3か月間、玉子料理と鶏肉料理が並ぶことはなかった。 それにしても、卵の黄身と白身は、ひよこになるまでに、どう変化するのだろうか。 こんな身近にあるものなのに、それを学校でも教えて貰ったことが無い。 生命ということを勉強するには、もってこいの教材なのに、授業では習わないというのは、子供に見せるには、刺激が強すぎるということなのだろうか。 余程、エゲツナイことになっているんだな、あの卵の中では。 考えないようにしよう、タクミは思った。 「こんにちは、赤ちゃん、あたしと、鳩さんがママよ~。いつごろ生まれるんだろう。もう、卵の中で、鳩のひよこちゃんになってるのかなあ。、、、それともまだ、ドロドロ?いやだ、ドロドロは考えないようにしようっと。」鼻歌まじりに呟いた。 「随分とご機嫌だねえ。」 「だって、もうすぐ生まれるんでしょ。早く、赤ちゃんを見たいのよ。」 「でも、歌のところ、字余りだったよね。あたしと鳩さんがママよってとこ。」 「うん。ほんとは、あたしがママよって歌いたかったけど、鳩に悪いもんね。ねえ、いつ生まれると思う?」 「いつなんだろうね。そうだ、今日の鳩の様子は、どうかな。」 「うん。さっきも温めてたよ。」 「そうなんだ。」 そう返して、タクミは、ベランダに出てみた。 「あれ?」 「ねえ、ケイコ。鳩がいないよ。」 「えっ。嘘。さっきまでいたんだよ。」 排水溝の巣には、鳩の産み落とした卵が1個、ポツリとそこにあった。 「どうしたんだろう。あの鳩。っていうかさ、ダメじゃない。温めなきゃ、卵死んじゃうよ。」 「どこかにエサを取りに行ったのかな。それにしても、ずっと巣で温めてたのに、変だね。」 「それより、ダメじゃない。ほっとけないよ。」 そう言って、ケイコは巣に走り寄って卵を両手で取り出した。 「どうしよう。卵が死んじゃうよ。ねえ、どうしよう。」 「巣に返した方が良いんじゃないかな。また鳩が戻ってくるかもしれないし。」 「ダメだよ。そんなことをしたら、卵が死んじゃうじゃない。ポッポちゃん、ポッポちゃん、頑張って、死んじゃダメーっ。」 ケイコは、泣き顔になって、必死で卵に叫んでいる。 「おいおい、そんな大声で、死んじゃダメって叫んだら、近所の人がビックリするでしょ。」 「タクミ、何、呑気な事言ってるのよ、卵の命が掛かってるのよ。」 すると、隣のベランダから、奥さんが出てきて、「何があったんですか。大丈夫?」と心配そうに聞いてきた。 「あ、いや。大丈夫です。ただ、ちょっと嫁が感情的になっておりまして。実は、鳩が卵を残して、どこかに行っちゃったものですから。」 「そうなんですね。そういえば、今日の夕方から見かけませんでしたものね。」 「ねえ、タクミさん。あなたも卵に声をかけてあげてよ。そしたら、卵も頑張れるかもしえないじゃない。ねえ、あなた。」 「いやだよ。そんなことするの。」 「なんでよ。卵が死にそうなのよ。そんな冷たい人だったの?じゃ、隣の奥さんも叫んであげて。お願します。」 ケイコは、もう鼻水を流しながら、隣の人にも頼みだした。 「わ、解ったよ。でも、お隣さんは、関係ないからね。僕が叫ぶよ。それならいいだろう。」 「ポッポちゃーん。帰っておいで、、、。ポッポちゃんーん。」 「ダメよ。そんなんじゃ、聞こえないわ。もっと大きな声を出して。」 困ったな、でも仕方がない。 「ポッポちゃーん。死なないでーっ。生き返ってくれー。僕がいる。ここにケイコもいるからね。ポッポちゃんのお母さんだよーっ。」 こうなったら、どうでもよくなって、あらん限りの大声で卵に叫んだ。 「、、、、ありがとう。タクミ。大丈夫だよね。きっと生まれるよね。」 「大丈夫だよ。生まれるに決まってるよ。」 とりあえず、その場が治まればいいと思った。 「旦那さんも、大丈夫?」 心配そうに、隣の奥さんがベランダの塀の向こうから聞いた。 「ええ、すいません。大丈夫です。」 と、軽く頭を下げたら、首をひねりながら隣の奥さんは部屋に戻って行った。 「そうだ、卵が冷えちゃったら可哀想だから、そう、部屋の中で叫ぼう。そうしよう。卵は温めなきゃダメだしさ。」 と、無理やり部屋にケイコを引っ張り入れた。 「ねえ。どうしよう。どうしたらいい。」 ケイコは、卵を両手で包み込むようにして、部屋の中を歩き回っている。 「とりあえず、卵を温めながら、鳩が返ってくるの待とう。それしか出来ないよ。そうだろう。」 「うん。じゃ、あたしが温める。これで生まれたら、本当のママになっちゃうね。」 少し泣いたら気が済んだのか、そう言って切なく笑った。 「ねえ。今日は、デリバリーのピザにしていい?だって、卵温めてるからさ、手が使えないじゃん。」 「うん、いいよ。解ったよ。」 それにしても、さっきは、どうなるかと思ったよ。 タクミは、ピザをケイコに食べさせながら、さっきのことを思い出していた。 そして、その後は、ずっとケイコが卵を両手で温めているのを、タクミは、ただ傍でみているしかなかった。 次の日である。 タクミは、いつものように仕事に出かけた。 ケイコは、まだ卵を抱いている。 「いってらっしゃい。じゃ、今日は、晩御飯スーパーで買ってきてね。あたしは、卵温めてるから。」 「うん。解ったよ。」 ドアを閉めたら、何故かホッとしたような開放感を感じた。 とはいうものの、ケイコに対する心配は、今日1日、忘れることは出来ないだろうと思った。 「ねえ、卵どうしたの?」 タクミは、仕事から帰って来て、ケイコが卵を抱いてないことを不思議に思った。 昨日から、今日へかけてのケイコの様子じゃ、今日もずっと卵を抱いていたはずだからね。 「うん。もういいの。」 「もういいって?」 「あのね。卵、死んじゃった。たぶん、死んじゃったと思うの。」 「どうして。」 「うん。あのね、ずっと手で温めてたのね。それでね、もっと効率的な温め方ないかなと思ったのね。うん、思ったの。」 何故か、ケイコは、子供っぽく話し出した。 「それで?」 「お鍋にね、お湯を沸かしたの。ほら、人間もお風呂に入ったら気持ちいいでしょ。卵も、温められるし、お風呂に入った感じで、気持ちいいんじゃないのかなって。」 「それで?」 「そしたらね、火を止めるの忘れちゃったの。お鍋に卵を入れて、火を止めるの忘れちゃったのよ。、、、、たぶん、卵、死んじゃってるよね。ごめんね。卵死んじゃった。」 「それ、ゆで卵にしたってことなんだよね。殺したんじゃ、、、。いや、それは、どうだっていいんだ。仕方がなかったんだよ。」 「やっぱり、あたしが殺しちゃったのかな。そうだとしたら、どうして償えばいいのかしら。あたし、大変なことしちゃった。」 「それだけどね。もう、卵は、昨日から死んじゃってたんだよ。だから、ケイコが殺したんじゃないよ。実は、今日、同僚と話をしたんだけれど、鳩はね、卵が孵らないと分かったら、もう卵を温めないんだって。捨てちゃうんだって。」 「そんな薄情なことあるの。生まれないからポイって捨てるんでしょ。可哀想じゃない卵ちゃんが。」 「でも、それが自然っていうことなのかもしれないよ。だって、生まれない卵を温めても仕方がないじゃない。」 「それはそうだけど。せめて、生まれなかった卵を、どこかの公園にでもお墓を作って埋めてあげて欲しいじゃない。」 「鳩にお墓は作れないよ。」 「でも、しばらく。そうだ、卵が枯れちゃうまで、そばにいてて上げて欲しかったな。」 「うん、そうだね。気持ち的にはね。」 ゆで卵にしちゃったケイコが、鳩を責めるのも、チグはぐな気がしたが、昨日のように泣かれても困る。 ここは、そっとしておくのが正解というものだろう。 タクミは、服を脱いで部屋着になったら、テレビのスイッチを入れた。 これで、また日常が戻ってきた。 すると、キッチンから、「気持ち悪い―。」って言いながら、ケイコが走ってきた。 「ねえ、見て。これが鳩の赤ちゃんだって。スマホで検索した鳩の赤ちゃんの写真を見せた。」 黒っぽい羽根の生えた濡れたおよそ可愛くない生き物が写っている。 「ねえ。鳩の赤ちゃんって、気持ち悪いね。」 「ホントだね。」 「良かった。生まれなくて。生まれてたら、困ってたよね。それにさ、あたしが殺したんじゃなかったんだもん。全部、解決だね。あー。スッキリしたーっ。」 ケイコの明るさが戻ってきたのは嬉しいのだが、なにかスッキリしないものがある。 テーブルを見ると、茹でられた鳩の卵が、小皿の上に乗っけられている。 「ねえ、どうするの。この卵。」 すると、キッチンから叫ぶケイコの声が聞こえた。 「捨てといて。」 妙に明るい声だった。 しかし、捨てといてって言っても、、、そこのゴミ箱に捨てるのか。 この卵には、果たして、生なる活動はあったのだろうか。 ゆで卵になる前の卵の中は、ドロドロの黄身だけだったのだろうか。 それとも、塊のようなものが出来始めていたのだろうか。 既に、ゆで卵になってしまった今でも、生きていた、或いは、生きようとしていた事実は、残っているのだろうか。 それとも、もともと、死んでいたのだろうか。 タクミは、すぐには捨てることができなくて、そのゆで卵を背広のポケットに入れた。 そして、次の日の朝、少し早めに家を出て、近くの公園に小さな穴を掘って、そのゆで卵を埋めて、小さな小枝を墓石の代わりにして、1本立てた。 この卵は、始めから死んでいたのか、或いは、途中で生きることをやめてしまったのか、それとも、ケイコに殺されたのか、それは知らないが、なんとなく、これで卵の一生が終わったと思った。 「ああ、スッキリした。」 そうタクミは、小さく呟いた。
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