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森美音子氏の『虚蟲が孵る』という短編小説を無性に――そう、ムショーに――朝から読みたくなって、自室の本棚を探したが、見つからなかった。
虚蟲は「ソラムシ」と読み、孵るは「カエる」、つまりは卵が孵化するという意味である。
初めて読んだのはもうずいぶんと前のこと、どんな小説だったかはおぼろげにも覚えていないのだが、読みたくなったものは仕方ない。
読みたい、読みたい、今すぐにでも、この感情を阻止できるものが何処にいようか。
読みたい、読みたい、食事を一食抜こうともそれが叶うものならそうしたい。
そんなひたむきな熱望にかられた私は、ヤサガシをするようにも本探しを始めた。気ままな独り暮らしを続けている私には、本探しの助っ人などもおらず、ええいと孤軍フントーの勢いなのであった。
本棚の全ての段はもちろん、押し入れにしまい込んだダンボールの箱の中、そして、自室のベッドの下、更には物置に積んだ紐括りの古新聞の束をも崩して、探しに探した――しかし、見つからない。
ふうっと疲労の息を付いて、部屋に戻って、床に寝っ転がったところで、ああと妙案を思いついた。見つからないのであれば、買えばいい。そうだよ、それだけのことよ。
そう、今のこの時、〝本隠し〟の悪魔みたいなものが我が家には居ついているのではないか。そいつの駆使する魔法のせいならば、どんなに何処をどう探したって見つかるわけもないのである。探せば見つかるものであれば、わざわざと同じ本を買うのはもったいないということにはなるが、悪魔が相手では勝ちメ無し、いや悪魔を相手にするほヒマじゃない、と強がったっていい。
――という次第で、わたしはネット上のブック売りのサイトを片っ端から当たった。
森美音子氏は物故作家であり、生前、誰もが知るベストセラー作品を世に送り出したというではないが、今でも一部熱狂的なファンを持つ。亡くなられたのは、ずいぶん昔のことであっても、その独特の作風には信奉者が少なくないことから、その著書は古書として、驚くほどの値段が付けられているかもしれないとは思ったが、それが何だろう。少しばかり高価であったって、かまうものか。読みたい、読みたい、どんなことをしても読みたい、読みたい、この気持ちをナイガシロにはできっこない。
運のいいことに、昨日臨時働きのアルバイト代が入ったばかりで、持ち金には多少の余裕がある。そう、運がいい運がいい、読みたい本が見つからなくても、今の世の中、ネットを漁れば、どうにだってなるのだよ――と強気の私の運は、しかし、呆気なくも潰された。
ネットの波を掻き分けるようにして、何処をどう探しても、お目当ての『虚蟲が孵る』はない、無いのである。おお、虚蟲ヨ、何処にいる、と右眼左眼をどんなに動かしても、
〈この著作は現在お取り扱いしておりません〉との表示ばかりが出てくる。
ああ、本隠しの悪魔は、こうもあちこちにと跋扈しているものか、とわたしはため息ばかりを付くしかなかった。
だが、私はメゲなかった。
ネットがダメなら、ライブラリー、そうだよ、図書館があるよってなものである。
実のところ、こちらの方のアテは、ネット上のブックストアをあちこちと当たる先にも、見当を付けていないこともなかったのだが、私の住まう地方都市には、公立図書館の数など限られていて、そのどれにしたって、私の住まいからは、なにぶん、呆れるほどに遠い。
最も近いと目される図書館にしたって、電車を乗り継ぎ乗り継ぎして幾千里、と言っては大袈裟だが、えっさえっさと時間をかけて、半日掛かりとなる遠隔地に、やっとこさの有様で在ってくれるのである。
いや、しかし、それが、そうとも、何だろう。
読みたい、読みたい、今すぐ読みたい。この熱望はふくらむばかり、胸に手を当てれば、アッチッチとその体温は刻々とも上昇する――その思いに応えてくれるごとくにも、図書館の蔵書検索を掛けてみると、ハイ、ハイハイハイ、ありがとう。
森美音子氏の『虚蟲が孵る』は見つかった。
おお、凛々しい、凛々しい、タイトルの1の文字1文字がそのような感じなのだよ、と私は嬉しさの余り、そんなヘンな褒め方をして、ほっと微笑んだかと思うと、さあさあ、いざ出発だと遠い遠いの場所にある図書館行きを決める。
全県の公立図書館で使用OKの貸出カードなんぞは、むろん疾っくに持っている。
数年前仲良しの友人に誘われてかの地まで、遠出のピクニックに出掛けた折り、元来本好きの私を知ってくれている友人が、あら、こんなところにも図書館ってあるのね、とちょっと寄ってみようかと気を利かせてくれたおかげで、訪ねる予定にはなかったその図書館にふらりと入り込み、ついでに貸出カードまで作ってもらったのである。
開館時間は午後六時まで。今はお昼前だから、急行電車の乗り継ぎがうまく行けば、何とか間に合うだろう。
私は一つ、深呼吸をして、梅干し入りのおむすびをそそくさと3ケ拵え、ペットボトル入りの麦茶も忘れずに、お気に入りの緑色も鮮やかなナップサックに入れこんで、出掛けた。
もう、電車の中にいた。
ガタゴトと揺れるだけ揺れる電車は混んでいたが、乗り始めの私は運よくお見合い式の座席に座ることが出来た。
5駅ほど過ぎると、降車客が増え、見る見るうちにヒトはまばらになった。立ち客のいなくなって見晴らしの良くなった視界の中、真向かいの座席に、一人のおばあさんが座っているのが見えた。
なぜともなく目が合って、にっこり。
その時、ひとすじの眩い波状の光のようなものが、電車の窓越しすんなりと入ってきて、車内を快く温もらせる。
ナップサックから取り出したおにぎりを食べ、ペットボトルの麦茶も飲む私を、おばあさんはやさしい目で見つめながら。微笑んでいる。そのうち、おいでおいでと手招きをしてくれた。
見れば、おばあさんは、自分の腹部から胸までをも覆い隠しそうなおおきなおおきな真っ白い卵のようなものを抱えていて、私は呆気に取られるしかなかったが、とにかく、おいでおいでをされるので、ハイと頷き、そちらに移動した。
「――さっきまでね」とおばあさんは話し始めた。
「そう、さっきまでね。この電車はヒトでいっぱいだったけれども、わたしには、疾うからあなたの姿が見えていたよ。あなたのお膝の上に置かれたズタ袋だって、そう、緑色をしているそのズタ袋ね、それだって、ちゃあんと見えたよ」
見た目、気の毒なほどシワに覆われきった顔付きの老婆であるが、しかし、その声は若く、明瞭である。ホッと息を付く思いになりながら、
「これって、いちおうナップサックのつもりなんですけどー、ええ、ズタ袋じゃなくってー」なんて芸のない返事などむろん私はしない。その代わりというでもないが、
「それって、何かの卵ですか」と勢い込んで訊いていた。
おばあさんの膝の上にある、そのおおきなおおきなものが、何かの生きもののいのちの源を裡に脈だたせているようには私には見えない。いや、これって、まるごとのくだもの、そうフルーツってものじゃないかしら、と間近のおおきなおおきな卵のようなものを見改めていた。
真向かいの席からはさっきまで真っ白く見えていたはずのそれは、車内を快く温もらせて止まないひとすじの眩い波状の光のせいか、うっすらと黄色みを帯びて光っている。
そうよ、これって……。
「ザボン、か何かですか?」
おずおずとも問いを重ねる私に、
「ザボン?」とおばあさんは呆れ声を返し、少しだけ笑ってもみせてから、ザボンという果物を自分は知ってることは知ってるが、これまでの長い人生において、実物を見たこともなければ、食したこともない、まあザボン漬けとかいうこれでもかと砂糖をまぶした甘ったるい加工食品を知り合いからの旅土産でもらったことなどはあるけれどもね、とセツメイしてから、
「これは、卵だよ。立派な立派な卵だよ」と繰り返した。
「な、何の卵なんですか」
更に訊かずにいられない私に、おばあさんは、あっさりこたえた。
「そりゃ、あなた、蟲サンだよ。知ってるだろ、ソラムシ、そう、虚蟲ってやつね」
私は二の句が継げない。
「ソ、虚蟲って……」
私は黙り込むしかなかった。
ポカンと口さえ空けてしまった私に、そんなに驚くほどのものでもないだろう、とおばあさんは、膝上のおおきなおおきな卵を撫でる。
「ほら、あなたもいっしょに撫でてごらんなさいな」
誘われるまま、おずおずと指先を、私は伸ばした。表面は、あっさりともツルンとしている。朝食の目玉焼きを拵える時など、かならず触れもする鶏卵の感じと変わらないようだ。
そんな私に頷く様子にも、おばあさんは決然たる声を放った。
「実は、わたしには任務ってものがあってね」
「ニ、任務?」
「そうだよ。この虚蟲の卵ってものを、これはと見込んだ誰それさんに、いえ、誰それさんなんて、ごめんなさいよ。そうですよ、今目の前にいるあなたっておヒトにお譲りして、いいようにしていただく、それがわたしのシゴトってものなのさ」
見込まれた私は、どうしましょうと戸惑うしかなかった。
「まあ、気乗りがしなくても、ヒト助けと思ってくれてもいいのだよ。この任務をつつがなく果たせれば、わたしには救いが来るってものでね」
「ス、救い?」
「そうなんだよ。この虚蟲の卵のお譲りが叶ったならば、長年抱えている持病も、家の借金も、不良性を帯びている孫も、みんな一夜で万々歳、難題はみんな片付いて、あかるいみらいが待ってくれている。お願いだよ、年寄りを助けると思って、この卵を、虚蟲の卵を持って帰っておくれ」
そ、そんなこと、知ったこっちゃないわよ。私は思わず気色ばらずにはいられなかった。あなたのご持病も、お宅の借金も不良のお孫さんも、御心配ではありましょうけれども、それがこの私と何のカンケイがある?
だが、おばあさんはあっけらかんと意にも介さない。
「持ってお帰り、持ってお帰り、そうしたら、そのあとの順路は不思議にうまく決まって来るのだからね」
「ジュ、順路って……」
ますます戸惑いを大きくする私にかまわず、おばあさんは、よっこらしょと陽気な声を上げて、虚蟲の卵なるものを、私の膝に載せた。
「困ります。ホントに困ります。だって、私には、これから行く所があって」
私は必死に応戦した。おばあさんは、微塵も動じない。
「知っていますよ。そんなこと。御本が呆れるくらいいっぱいいっぱいある場所というものに、あなたは行こうとしている」
「どうして、それをご存じ?」と不思議がる私に、「図書館行きなんぞは後回し、アト回し、わたしには何でも見える、お見通し、この卵を持っていれば、誰でもそんな風になれるってものでね」と更に不思議な言い回しをしてやまないおばあさんに、私はもうあらがうことが出来なかった。
「じゃあ、お達者でね」
おばあさんはいっそう若返った声で、おおきなおおきな卵を膝上に載せられた私の頭を撫でさえしながら、折りから電車の停まった次の駅で、バンザイをするように頭上にまで上げた両手を振って、降りて行った。
それからの私、それからの自分……について、私はうまく語れそうにない。こんなことを言っては、全くもって、不甲斐ないとは思うのだが、
それでも何とかカントカ、目的の図書館には行ったと思う。緑色のナップサックを背負い、必死の思いで、降りた駅から抱えて行ったおおきなおおきな卵を、私は、図書館のロータリー横の芝生の隅に、こわごわ置いて、ちょっと待っててねと語り掛けさえしながら、館内に入った。
閉館時間が迫っているので、すぐさま駆け足で、受付に行き、森美音子氏の『虚蟲が孵る』をお願いしますとお願いした。
ところが、どうしたことだろう。ちょっとお待ちをと間近のパソコンで蔵書検索を始めた図書館員は間もなく、「申し訳ありませんが、御所望の本はただ今貸し出しがなされております。したがって、お貸しすることは出来ません」と気の毒そうに、しかし冷徹に告げた。
そ、そんな。そんなのってある? だって、今朝の今朝まで、貸出OKの表示がともされていたのですよ、と言い返す私を、
「ああ、その時に、そう、そうです、今朝の今朝のその時に、予約を入れていただいておけば、確実にお貸しできたわけなのですけれども。申し訳ありませんねえ」と図書館員は気の毒そうに見返す。
私のヒト足フタ足先にでもか、予約を入れたらしきのヒトの存在など最早私にはどうでもよかった。こんなところにまで瞬間移動して来ていたのかしらね、と本隠しの悪魔さんを今更怨む気持にもなれなかった。それ以上に、あのおばあさんから譲り受けた(いや押し付けられた)おおきなおおきな虚蟲の卵が、わたしを圧していた。
図書館を出た私を、おおきなおおきな虚蟲の卵はどうということもなく待っていた。ウンともスンとも言わないが、まだ裡から何かが生まれ出るものでもないだろうと自分を励ましながら、私はおおきなおおきな虚蟲の卵を抱えて、帰路の電車に乗った。
家に戻った私には、不眠の時が待っていた。眠れない、眠れない。朝が来ようが昼が来ようが夜が来ようが、眠れない。体の不調を言い訳に、アルバイト先にも、お休みしますと電話を入れた。
私は、台所の床の上に、おおきなおおきな虚蟲の卵を置いていた。
卵が何時孵化するのかと気が揉まれ、何も手に付かないありさまだった。
しかし食欲だけは何とかあってくれるのが救いで、三度三度の食事は抜かさず摂った。
そのうち、私もいい気なもので、おおきなおおきな虚蟲の卵の存在に少しは慣れてきたのか、数日が過ぎる頃には、食事の支度をしながら、イイ子にしていないと、殻を割って卵焼きにしちゃうぞ、と軽口を叩いて、卵を見下ろしたりとしていた。
その声が聞こえたのか、ミシッとかすかな音がする。だが、何処を見ても、卵の殻にはひび割れなど生じていない。
「脅したって、ダメだよ。そんな音なんてたてちゃってさ」
私は強気の声を発した。すると、また、ミシッ。その音は途切れず続くのであったが、卵の表面には何の変化もありはしない。
「ずっと、ずうっとイイ子でいてね」
語り掛ける私を宥めるようにも、ミシッ、ミシッの音は続いたが、卵はまだ割れる気配を見せなかった。
不眠の日日は続いた。
卵が割れるのは怖いが、まさか恐竜の赤ちゃんとかが飛び出してくるわけでもないだろう、と私は強いて思った。
それは楽観であったかもしれないが――いや、不眠のマイナスを補うようにも楽観の思いは意地でも募るようなところもあって、もしかしたら、割れた卵の中には、ハイお待たせと1冊の本などが鎮座していて、それはもちろん、私が願ってやまない森美音子氏の『虚蟲が孵る』そのもので、読みたくて読みたくてたまらない本がようやく読める読めるのだとこのワタクシは感涙にむせぶのでアル、とそんな予感をも抱く、抱きたくなるのであった。
〝――それほど甘くもないでしょうよ〟
すると、ふと声が聞こえた気がした。その声は、あの電車の中で出会ったおばあさんのものに似ているかと一瞬思われたが、そうでもないかと私は冷静さを保った。
〝そう、そんなに甘くない。甘くもないからには、そろそろ、出て行ってあげようかねえ〟
全くそんなヘンな物言いが卵の裡から聞こえたかと思うと、ミシッ、ミシッの音はみるみる連続的なものとなり、ああとわたしは我が両耳をふさぐ。怖いよ、怖いよ。
ミシッ、ミシッ。音の侵入を拒む耳にかまわず、おおきなおおきな虚蟲の卵は、そして、とうとう割れた。
ああああとわたしは両耳をふさいでいた右の手左の手を外し、こんどは右の目左の目に当てた。割れた卵の裡から生まれ出ずるものを見たくなかったからだ。怖いよ、怖いよ。
〝そんなことをしたって、お無駄だよ〟と笑う声が、そして、響いた。響いて、私の見えないはずの右の目左の目を開かせる。
また笑い声が放たれる、放たれてきた。割れてしまったはずのおおきなおおきな虚蟲の卵であったのだが、その殻のひとかけらさえ周辺には散らばってもいない。
ただただ澄んだ、澄み切った空気が、頭のてっぺんから私を覆い、私は見る間に、私でありながら私でない何ものかになっていく。
〝あなたでないあなたって何だよ。そうだよ、いったい一体、何なんだよ〟
笑い声はいっそうおおきくおおきくなって、私でない何ものかになっていくばかりの私を覆う。覆いながらも、声は絶えない。
〝良かったね。よかったね。うれしいね、歓ばしいね。そう、そう、もう、すっかり、あなたは、あなたでないあなたでなく、ほらね、此処にこうして在るこのいのちそのものだね〟
声は、そのうち、リニアな指の1本2本と成り得て、みるみる《私》を指す。指して、指し切って、〝さあ、こうしたからには、《あなた》を読んでしんぜようね〟と高らかな宣言を《私》に浴びせ、最早すっかり1冊の本となりおおせている《私》を読み始めた。
《……森美音子氏の『虚蟲が孵る』という短編小説を無性に読みたくなって――そう、ムショーに――自室の本棚を探したが、見つからなかった。
虚蟲は「ソラムシ」と読み、孵るは「カエる」、つまりは卵が孵化するという意味である。
初めて読んだのはもうずいぶんと前のこと、どんな小説だったかはおぼろげにも覚えていないのだが、読みたくなったものは仕方ない。
読みたい、読みたい、今すぐにでも、この感情を阻止できるものが何処にいようか。
読みたい、読みたい、食事を一食抜こうともそれが叶うものならそうしたい……》
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