こころはたまご

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私が小学校の先生をしていた頃の話。 いつき君という男の子を、担任として四年生の時だけ受け持ったことがある。 いつき君は、所謂転勤族の父と二人暮らしで 私の勤めていた学校も、その一年間だけですぐに転校をしてしまった。 転校初日。 職員室に、一人で挨拶に来た彼は私に言った。 「短い間ですが、よろしくお願いします。」 彼は理解していた。 またいずれ、ここを去らなければならないことを。 四年生の時点で、すでに五回の引っ越しを経験していた彼は 教室にいる誰よりも成熟していた。 転校して最初の二週間は、彼の周りに人だかりができていた。 この時期の子供たちは、特別感やイベントに過敏な年頃。 当然のごとく、彼は人気者になったかのように見えた。 しかし 時間が経てば理解する。 彼が特別でないことを。 彼が自分と同じ凡人であることを。 そして 赤子のように昨日までの記憶を忘れ 移りゆく時の流れに身を任せる。 三歩進めば、全てを忘れる鶏のように 目の前に見えた、また新しい何かに興味を持つ。 彼は知っていた。 人間とは そんな無垢で且つ、残酷な生き物であると。 彼は分かっていた。 自分は そんな人間たちの一員であると。 だからこそ 彼は息を潜めていた。 世界から 全ての人たちから 離れた場所で生きていくしかないと。 そうしないと 彼が 彼自身の心が ボウルの中から溢れ落ちて 破片を散らしながら割れてしまうかもしれないと。 … それでも 彼は受け入れていた。 自分は、その中でしか生きていくことが出来ないと。 そんな捩れるような矛盾の中にいる彼に 私はあの時 どんな言葉をかければ良かったのだろう。
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