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彼は、飼育委員をしていた。
係決め、委員決め、当番決め。
学校ごとに呼び方は違うものの、日本人が一度は経験する役割分担の一つ。
この学校には、鶏小屋とウサギ小屋があり、いつき君は鶏小屋を担当した。
学年ごとに週に一回、掃除や餌の世話をする。
生き物と触れ合うことで、命の大切さを学ばせる…なんて
それっぽい理念を掲げただけの、ただ教職員が楽をするための委員会。
ただ、相手はあの未成熟な小学生。
飼育当番なんて、宿題と同じように、いとも簡単に忘れたりサボったりする。
だから結局、見回りの教職員がやるのが関の山…と思っていた。
でも
いつき君は違った。
自分が当番でない日も
半分以上の児童が帰る放課後の時間も
彼はよく飼育小屋の前にいた。
餌をやり、掃除をし終わった後も
鶏と戯れるわけでもなく
ただひたすらに
檻の外から鶏を眺める。
私が放課後当番の日
私は思いきって、小屋の前に座るいつき君に話をしに行った。
「鶏、好きなんだね?」
「別に、好きじゃないです。」
「えー。でも、いつき君が当番以外の日も小屋に来てるの、先生知ってるんだ。」
「そうなんですか。」
「鶏が好きじゃないなら…あっ!生んだ卵が孵る瞬間が見たいとか!」
彼は少し黙った。
目線は、檻の中の鶏から離すことなく。
その間はまるで、歳上の大人と会話をしているようで
私は彼が口を開くまで、その小さな背中をただ見ているしか出来なかった。
「先生は…」
「ん?どうしたの?」
「先生は、卵がどうやって孵るのか分かりますか?」
「どうやってって…鶏さんが、大事に卵を温めていれば孵るんだよね?」
「では、この卵はいずれ孵ると思いますか?」
「多分、ちゃんと育てればひよこになるんじゃないかな?」
「卵には、無精卵と有精卵があります。卵が孵るのは有精卵だけ。有精卵は、雄と雌が交尾をすることで生み落とされ、卵の中にひよこの元となる胚盤があります。一方、無精卵が目の前にあるこれ。鶏が日課として生む卵なんです。」
彼が檻の中の卵を指で指す。
「へー。いつき君って、凄く物知りなんだね。将来は、動物学者さんになれるかもしれないね。」
彼は、私の言葉を無視して話を続ける。
「では、有精卵がひよこになるにはどうすればいいか。卵を温めるだけじゃ、ひよこにはなれない。卵を抱く。それも二十日ほど。抱くことで、卵に適した温度、湿度、空気を与え、さらに卵を転がすことで刺激も与える。お腹の下の見えない所で、そこまで鶏は苦労をして、それに加えて外敵から卵を守ったりしながら、やっとの思いで卵を孵す。」
こんなに話をする彼を見たのは初めてだった。
呆気にとられる私を置いてきぼりにしながら、彼はさらに言葉を続ける。
「卵として、この世に生まれ出た時点で、すでに鶏になれるかが決まっている。そこから、愛情が注がれるかどうかで、ひよことして生を授かるかが決まっている。人間もそう。自分が生まれた環境で、すでに人生の半分以上は決まっている。育っていく道のりも、受けられるだけの愛情も。でも、人間は鶏よりもタチが悪い。その幸せか不幸せか、誰が決めたかもわからない物差しで、周りと自分を比べたがる。自分よりも幸せな人間には嫉妬をして、自分よりも不幸せな人間は蔑む。なんて醜く、なんてつまらない生き物なんだろう。」
「…。」
「だけど、鶏は違う。僕が掃除に入っただけで、生まれもしない卵を守る。そこに何があるのか、それが何なのかは関係ない。ただ、それが大切だと思うから守る。そんな無償の愛情が、こんな小さくて弱い生き物にだってある。ねぇ先生。僕ら人間にも、こんな無償の愛って、あると思いますか?」
…
私には
私には、何も返せる言葉はなかった。
キーンコーンカーンコーン
冷たいベルの音が、固まった空気に突き刺さる。
「先生、さようなら。」
呆然と立ちすくむ私を気にも留めず
彼はランドセルを背負って去っていく。
「う、うん。さようなら。」
これが、私の精一杯だった。
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