〈5〉

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〈5〉

 余裕を持って家を出たのに、電車のトラブルで少し遅れてしまった。梨奈にメッセージを送ると、「OK」の可愛いスタンプが返ってきた。 先日の食事の時に、やっと交換できたのだ。 『いつも聞こうと思ってたんですけどね。でも、会社で会えるからあんまり焦んないみたい』  梨奈は恥ずかしそうに言い訳していた。  もう約束の時間を過ぎている。 息を切らして走っていた僕の目に、梨奈の姿が見えた。相変わらずのミニスカートに、パステルカラーのニット。長い髪も今日は下ろしている。 信号待ちで立ち止まった僕に、梨奈も気がついた。 笑顔で手を振っている。僕も小さく手を挙げた。 もうすぐ彼女に会える そう思って頬が(ゆる)んだ時だった。 不意に二人の男が梨奈の前に立った。 驚く彼女に、彼らは馴れ馴れしく話しかけているようだ。 あいつら 何やってんだよっ 今すぐ飛び出したくても、交通量が多すぎる。僕はイライラしながら信号が変わるのを待っていた。 時間がたつのがこんなに長く感じたことはなかった。 青になるやいなや、僕は彼女の元へ駆け出した。 「梨奈っ」  僕は腕を伸ばして彼女の手を(つか)み、肩を抱き寄せた。そして、精一杯男たちを(にら)みつけ、梨奈とその場を離れた。 「大丈夫だった?」 「はい。先輩が助けてくれるって思ってたから」 「…期待しすぎ」 「へへ」  梨奈のはにかんだ笑顔にドキドキしながら、僕は彼女の手を離さずに歩きだした。 「それと、その服。気合い入りすぎ」 「えー、可愛いと思ったのに」 「可愛すぎなの。だからあんなのに狙われるんだ」 「先輩に見せたかったのに。じゃあ、コレはいつ着るんですか」  まただ。 こんなふうにまっすぐ来られたら、僕はお手上げだ。 「あー、もう。わかったよ。僕が守ればいいんだろ」 「うん。ありがとう」  梨奈は嬉しそうに僕と腕を組んだ。 「(ゆずる)先輩は、いつもカッコいいです」 「…本当かよ」 「はい」  さりげなく僕の名前を呼んで、梨奈は微笑んだ。  気になるショップをいくつか回り、梨奈は僕に見せながら服を選んでいった。どれも似合っていたけど、何よりも笑顔で僕に尋ねる梨奈が、とても可愛いらしかった。 途中でお茶を挟んだ。 仕事以外の話を梨奈とするのは、すごく新鮮だった。 美味しそうにケーキを平らげ、綺麗な指先でストローをいじりながら、梨奈は話し続けた。 楽しそうな笑顔が、僕に向けられているのが嬉しかった。 時間はあっという間に過ぎていった。 「家まで送るよ」 「…うん」  夕食のあと、僕は彼女に申し出た。 車があればもっと(さま)になるのに。 梨奈と僕の家はここから反対方向になる。 がらんとした見慣れない乗り継ぎのホームは、寂しくて何だか落ち着かない。 初デートは 帰らせないとな もう少し一緒にいたかったけど、今日は僕も手を出さない自信はなかった。 梨奈はさっきから口数が少ない。 「疲れたか」 「あ、ううん。大丈夫です」   アナウンスが電車の到着を告げた。 別れの時間が近づいてくる。 また月曜日に会えるし… ため息を隠して乗り込もうとした僕の腕を、梨奈が引っ張った。 「…どうした」  梨奈はうつ向いて黙ったままだった。 発車メロディが、ホームに響いた。 電車は僕たちの横を通り過ぎていった。 「いいのか」  梨奈は腕の中で、僕の上着をぎゅっと握っている。 「僕もいつまでも優しくないぞ」  梨奈が嫌がることをするつもりはないけど、僕だってこの手に彼女を抱きしめたい。 「うん。わかってる」  梨奈はうつ向いたまま囁くように言った。 「でも、今夜はそばにいたい」  梨奈の口調はきっぱりしていたけど、声が少しだけ震えていた。頬がうっすらと薔薇色に染まっている。 ホームの端で、鼻先が触れそうなほど顔を寄せた僕たちは、そっとキスを交わした。 愛おしくて、僕は梨奈をぎゅっと抱きしめた。 「明日の朝は、ホットケーキ焼いたげる。卵は割れるようになったから」 「サンキュ」 「コンビニでホットケーキミックスって買えますか」 「さあ。覗いてみる? 買うものもあるから」 「何買うんですか」 「……内緒」 「あ。わかった。エッチなヤツだ」 「ばっ…、声がでかい」  やっとふたりが同じ気持ちになって、今夜のことを考えるともちろんドキドキするけど…。 なぜだろう。 明日の朝、一緒にホットケーキを食べているふたりが思い浮かんで、僕はそれだけでとても幸せな気持ちだった。 ただそばにいてくれたらいい そんな想いがあるからだろうか。 「(ゆずる)さん。大好き」 梨奈が笑顔で、また不意打ちを食らわせた。
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