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私は暗闇の中で目を覚ます。本当に真っ暗で、何も見えない。それに、ねっとりとした何かが私の体に纏わりついているようで、気分が悪い。どうにかして、この暗闇から出ることができないだろうかと、手を伸ばす。その瞬間、ぐらりと地面が傾いた。どうやら、この暗闇を作り出しているものは随分と不安定なもののようだ。それに、かなり狭い空間らしい。手を伸ばしてすぐに、硬い何か、恐らく壁であろうものにぶつかった。ペタペタと壁を触って確かめていると、壁は確かに硬いが、力を籠めればどうにか壊せそうだと感じる。しかし、それにはかなりの力が要りそうであることも分かる。
そうしていると、外から物音が聞えてきた。誰かがいる。多分声からして男の人。ここで声を上げれば、私を助けてくれるだろうか。ああでも、この男が私をこんな暗闇に閉じ込めた張本人かもしれない。ならば、ここでむやみやたらと声を上げるわけにはいかない。まずは、冷静に状況を判断しなければ。外にいる男が私の味方なのか、それとも敵なのか。
私が、外の物音をもっとしっかり聞き取ろうと壁の方へと体を傾けると、重心が移動したからか、そのまま空間ごところりと転がってしまう。せっかく外の音を聞き取ろうと耳を当てていたというのに、転がってしまったことによって、壁であった場所は地面となってしまった。今の私は何とも情けない姿であろう。誰に見られたわけでもないが、どうしようもない羞恥心を感じる。
そのまま蹲り、不貞寝してしまいたくなるのを何とかこらえ、起き上がろうとするが、先ほどまでと比べてかなり天井が低くなってしまっている。私は仕方なしに背を曲げて座ることになってしまった。私がどうしたものかと頭を悩ませていれば、どこかからクスクスと笑う声が聞こえてくる。ああ、そういえば外に敵か味方かわからない男がいたのだった。もしや、先ほどの情けない様子を見られてしまっていたのだろうか。だとすれば、最悪だ。男からは、中にいる私の様子はわからないだろうが、無様に転がる姿はしっかりと見られてしまっていたのだろうから。
私があまりの羞恥心から顔を覆って蹲っていると、男が声をかけてきた。その声は、私が外に耳をそばだてる必要などないほどにはっきりとしたものだった。
「少し落ち着きたまえよ、君。そんな風に転がっていては危ういぞ」
私にそう言う男の声は心地よい低さで、少しばかり甘い響きを持っていた。とろりとはちみつが溶けるような、まさしく色気のこもった声というべきか。きっと男の外見も、この声に合うような、たいそう美しい姿をしているのだろう。私は、先ほどまで抱いていた羞恥心などすっかり忘れて、その声に聞き惚れてしまった。自分では見ることは叶わないが、きっと今の私の顔は、まるで恋する乙女のように赤らんでいることだろう。そうわかるほどに、顔が火照って仕方ない。ああ、なんということか。私は見も知らぬ、誰かもわからぬ男の声に恋をしてしまったというのか。
男はすっかり動かなくなってしまった私のことをどう思ったのか、私が閉じ込められている空間ごと持ち上げてしまう。横になっている空間を、最初の通りにまっすぐ持ち上げるため、私は中でころころと転がってしまう。男はわずかに伝わる振動で、私が転がっていることに気付いたのか、くすりと笑いをこぼしている。どうしようもなく、情けなく恥ずかしい気持ちに襲われてしまい、膝に顔を埋めるように蹲った。
男はそのまま、元あった場所へと私を戻したらしい。それに気が付いた私は、そっと顔を上げて、少しでも男の近くに寄ろうと、また壁へと身を寄せた。そうすれば、当然の如く空間は横へと傾く。しかし、今回は男の手によって完全に倒れてしまうことはなかった。
「やれやれ、随分とお転婆なようだ。そんなにも僕のことが気になるのかね?」
男はやや呆れたような声で、私へと問いかける。私はその声に応えたくて、どうにか声を出そうとする。しかし、私の喉から出るのは、まるで動物の鳴き声のような、声とは言えないものばかりだった。ならば、この空間から出られれば、どうにか男の声に応えることができるのではないか。そう思った私は、この硬い壁を破ろうと力を籠める。しかし、それに気が付いたらしい男によって制止される。
「おっと、それはまだ駄目だ。今はまだ、君を外に出すわけにはいかないのだよ」
男はそう言うが、私は自我もあるし、体だってちゃんとある。この空間に閉じ込められる理由がないのだ。ならば、この場所から出たって構わないじゃないか。
「いいや、君の体はまだ完全ではない。せめてその空間いっぱいになるまで、でかくならなきゃ出すわけにいかないな」
男はまるで私が言っていることが分かっているかのように、言葉を紡ぐ。私はその言葉を聞いて、そっと体から力を抜いた。どう足掻いても、男は私をここから出す気はないらしい。なら、何をしたとしても無駄だろう。男は私の動きが止まったことに気が付いたのか、ふっと息をついた。
「今の君に必要なものは睡眠さ。……よく言うだろう? 寝る子は育つ、と」
男の少し茶化すような、それでいてひどく優しいそんな声に、私はだんだんと眠気に誘われる。
「ああ……、それから……」
男が何かを告げようとしている途中で、私の意識は途絶えた。
● ● ●
目覚めたとき、私は相変わらず暗闇の中にいた。ただ、少しばかり違うのは、私の体が眠る前よりも大きくなっていたことだ。確かに私の体は、男が言っていた通り、まだ成長段階だったらしい。私の体はどこまで大きくなるのだろうか。男は”空間いっぱいになるまで”と言っていたのだから、そこまで大きくなるのであろうということは想像できる。もう既に、少しばかり空間が手狭に感じ始めている。そこまでの大きさになるのも、時間の問題だろう。それだけ大きくなれば、私はこの空間から出ることができる。そして、男の言葉に応えることもできる。ああ、外に出る日が待ち遠しい。
私がそんな風に空想に耽っていれば、男が近づいてくる足音が聞こえる。男は私が起きていることに気が付いたのか「おや」と、声を漏らす。
「起きたのかい。よく眠れたみたいだな、寝坊助なお姫様。その様子だと、随分と成長したのではないのかな」
男の甘やかに問いかけてくるその声に、私は空間を揺らすことによって返事をする。そうすれば、男は少しばかり驚いたような、いや、感心しているようにも聞こえる声を漏らす。私はそれが、なんだかおかしく思って、更に空間を揺らす。男もしばらくの間、私が揺れる様をおかしそうに笑って見ていた。
「君は存外、芸達者なのだな」
男はとても愉快そうに、私に向かってそう言った。私がよく分からないといった風に、揺れて見せれば、男は「ただの独り言さ。気にしなくていい」と言った。男がそう言うのならば、私が気にすることではないのだろう。
ああ、疾く、疾く眠気がやってこないものだろうか。眠気に誘われるままに眠れば、きっと私の体は、次目覚めたとき、この空間いっぱいの大きさになっているはずだ。そうすれば、壁をぶち破って、男のもとに行けるというのに。
私がそんな風に、眠気が訪れるのを待っていることに男が気付いたのか、優しく声をかけてくる。
「そんなにも眠気が待ち遠しいのなら、寝物語でもいかがかな、お姫様?」
それは、私にとって何とも魅力的な提案だった。男の蠱惑的な声によって紡がれる物語を耳にしながら、眠りにつけるなど、なんと贅沢で、甘い誘いだろうか。いったいどんな話を聞かせてくれるのだろうか。ああ、でもたとえ陳腐でありきたりなものであったとしても、男が語るのならば、それはとても素晴らしいものへと成り代わってしまうのだろう。
私はゆらゆらと揺れながら、男が物語を紡ぐのを待った。しばらくして男が語りだしたのは、有名な童話の一つだった。ゆっくりと静かに響く男の声に、私はまたしても、最後までその声を聞き取ることなく、眠りに落ちた。
● ● ●
目が覚める。相変わらずの暗闇だ。しかし、体はすっかり空間いっぱいになるほど大きくなっていた。体を胎児のように丸めていなければ、この空間を壊してしまいそうだ。しかし、これならば、男も文句はあるまい。私はもうすっかり成長しきったのだ。この狭っ苦しい空間から出たっていいはずだ。私は腕を持ち上げ、天井を破るように力を込めた。そうすれば、最初はあんなにも硬かったそれは、すんなりと破れてしまった。真ん中あたりから、くっきりと割れてしまった空間から私はなんとか這い出る。私が今までいた空間を見ると、それは少し大きな卵であったことに気が付いた。つまり、私はたった今、この卵から孵化したということなのか。
部屋を見渡せば、驚くほどに何も置かれていない殺風景な部屋であることが分かる。置かれているものは、先ほど私が這い出た卵のそばに置かれた、一人掛け用のソファだけだ。私はかなり大きくなったと思っていたが、ソファは私よりも大きかった。もしかしたら、男はいつもこのソファに座って、私と話をしていたのだろうか。
私がそんなことを考えていると、この部屋に存在する唯一の出入口である、扉の向こうから足音が聞こえてきた。その足音は随分と荒っぽく、焦っているようなものだった。紳士然とした態度をとっていた、あの男の足音ではないように感じる。私の知らない誰かが、扉を挟んだ向こう側にいる。その足音は扉の前でぴたりと止まった。ああ、この部屋に入ってくるつもりなのだ。私は咄嗟にソファの後ろへと隠れた。
部屋に入ってきたのは、派手な女だった。何事かを叫びながら、部屋の中を見渡している。いったい誰なのか、あの男の知り合いなのか。恐る恐る、ソファの後ろから女の様子を見ていると、女と目が合ってしまった。私に気が付いた女は、私の手を掴み、引っ張り出されてしまう。女に掴まれた部分がひどく熱を持っている。痛い、熱い。
「────────!! ──────!!!!」
女が何かを叫んでいる。けれど、甲高いそれは私の耳には届かない。何を言っているのか私には分からない。やめて、見ないで。触らないで。私は、私は、彼と出会うために生まれてきたのに。
お前なんか、消えてしまえ。
● ● ●
気が付けば、あたりは真っ赤な海になっていた。私はその中心に立っていて、私の両手は赤く染まってしまっていた。先ほどまで喚いていたはずの女はすっかり静かになって、海に沈んでいる。
私がぼうっと赤い自分の手を見つめていると、ゆっくりと扉の開く音がした。私が扉の方へと顔を向ければ、そこには一人の男がいた。全身を黒で覆ったその男は、精悍といえるほど男らしくはなく、かといって弱弱しく、儚いといった風な印象を受けるわけでもない。すらりと流れるような切れ長の瞳は、まるで黒曜石のようで、肩口ほどまで伸びた黒い艶やかな髪は、より男の魅力を際立たせている。凡庸でありきたりな言葉でしかないが、私はこの男を”とても美しい男”だという風にしか表せられない。ただ、名前も知らないこの男が、とても素晴らしく、美しい声をしているということだけを、私は知っている。
「……全く、本当にお転婆なお姫様だ」
男は黒い山高帽の鍔を持ち上げながら、薄らとした笑みを浮かべて私を見る。笑みを浮かべるその顔の、なんと美しいことだろうか。ああ、この男こそ私の運命の人なのだ。私を救い上げてくれる王子様なのだ。私をきっと外へと連れ出してくれるはず。
私が男に向かって、赤く染まった手を伸ばす。けれど、男は私が伸ばした手を取ることは、決してしなかった。そんな私を見て、男はさらに笑みを深める。
「……“僕“にどんな期待を抱いているのかは知らないが、あいにくと”俺”は君に付き合う気はない」
男は今までのような優しく甘い声ではなく、酷く冷たく、地を這うようなゾッとするほど低い声を私に向けて発した。黒曜石の瞳が鈍く光りながら、私を無感情に見つめてくる。どうしてそんな顔で、そんな目で私を見るの。
「何を勘違いしているのか分からないが、俺は決して君の味方などではないのだよ。……君がただの幼気な少女であったのなら、こうはならなかったのかもしれないがね」
男の言っていることがよく分からない。私が、ただの少女ではないと、そう言っているのか。そんな馬鹿なこと、あるはずない。私は普通の人間の少女だ。
「まだ分からないのかい。……なら、自分自身の体をよぉく見てごらんなさい」
男のその声に従うように、私は自身の体を見下ろす。そこにあるのは、ずっと変わらない、いつも通りの私の体。少しばかり手や足が赤く染まってはいるが、何も変わっていない。私が不思議そうに男を見つめれば、男は私にゆっくりと近付いて来ていた。
「……どうして君の足は、魚の尾鰭なのか。どうして君の手は、そんなにも爪が鋭いのか」
私は男の言葉を聞きたくなかった。だから、耳を塞いだ。男はそんな私を気にすることなく、そっと懐から小さな手鏡を取り出す。その手鏡を私の顔が映るように向けた。私は鏡を見たくなかった。だから、今度は目を逸らした。
「目を逸らさずに、しっかりと自分の姿を見るんだ。自分の“本当”の姿を」
まるで魔法のように、私は男の声につられて、逸らしていた目線を真っ直ぐ鏡に向けてしまう。そこに映っていたのは、白目の部分までも覆うように広がる青く光る瞳、魚の鰭のような耳、まるで死人のような青白い肌、極めつけには、首元に鰓らしきものがある、人間とは程遠い姿をしたものがいた。
これが、これが私だというのか。そんなわけ、そんなわけあるはずがない。そう思いながらも、自身の頬にあてた手には驚くほどに鋭い爪があり、赤黒く染まっていた。視線は、いつの間にか鏡から外れ、赤い海に沈む女に向いていた。しかし、そこにいたのは女ではなく、ぐちゃぐちゃな、人の形を保ってすらいない肉塊でしかなかった。
なら、今まで私が見ていたものはいったい何なのか。私はイカレてしまっていたとでもいうのか。そうでなければ、まるで、私が自分を人間だと信じてやまない化け物のようじゃないか。やめろ、やめてくれ。私は、化け物なんかじゃ、ない。
「……いい加減に自覚したまえ。俺は君のお遊びに付き合えるほど、暇ではないのだよ。もう子守は勘弁だ」
なんで、あなたは私のたった一人の王子様じゃなかったの。どうして、どうしてそんなに冷たい目で、私を見つめるの。ああ、いやよ。そんなの、私が求めたあなたじゃない。お前は、私の恋したあの男なんかじゃない。
いらない。もう、お前なんか、いらない。
● ● ●
気がつけば私は、床に横たわっていた。なぜだか、体が動かない。頭を動かすこともできない。けれど、目の前に黒い足が見えている。きっと、あの男だ。
「つかの間の夢は心地よかったかね、人魚姫」
ああ、やっぱりあの男だ。いったい何をされたのか。どうしてこんな状態になっているのか。なにも、わからない。
あんなにも恋焦がれていたはずなのに、今ではこの男が憎らしくて仕方がない。それでも、心のどこかでこの男のことを求めてしまっている。どれだけ求めたとて、男は答えてくれないのは分かっている。それでも、未だ未練がましく、男へと動かぬ腕を伸ばそうとしてしまう。男はそれを見て、まるでこちらを嘲笑うかのように、口端を歪めた。
「全く……。言っただろう? 俺は、小便臭いのは閉口だ」
私はその声を聞き、ゆっくりと意識を失った。
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