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お気に入りのブラウスとスカートに着替えて、洗顔を済ませてリビングに戻ると、掛け時計は七時を示していた。両親は、まだ休日の朝寝から目覚めない。台所に立った大和は、先にサラダを準備していた。皿の隅に寄せられたレタスとプチトマトが、日差しを瑞々しく浴びて光っている。あたしに気づいた大和は、卵を一つ手に取った。
「じゃあ、作るか」
「うん」
あたしが隣に並ぶと、大和は卵をまな板にぶつけて、ボウルに手際よく割り入れた。次に、二つ目の卵をあたしに手渡したから、あたしは尻込みしてしまった。
「大和が割って。あたしが割ったら、黄身が潰れちゃう」
「ああ、海羽の目玉焼きは、結局いつもスクランブルエッグになってたっけ」
「あたしだって、好きでスクランブルエッグを作ってたわけじゃないもん」
目玉焼きを作りたくても、卵を割った瞬間には、殻の破片が黄身を致命的に傷つけて、ボウルの中で血液みたいに染み出た黄色が、透明な白身を汚すから、菜箸でぐちゃぐちゃに掻き混ぜて、失敗をなかったことにするしかなくて――後戻りができない告白をした、向こう見ずなあたしの恋みたいだ。大和が、肩を竦めて笑った。
「卵の中央を、平らなところにぶつければ、綺麗に割れるぞ」
「こう?」
卵をそろりとまな板にぶつけると、殻に入った亀裂には、無節操に拡がる罅割れとは異なる秩序を感じた。ボウルにつるりと落ちた卵が、大和が先に割った卵と、兄妹みたいに寄り添い合う。並んだ黄色と透明に、大和は慣れた手つきで塩を振ると、熱したフライパンから蓋を外した。湯気の入道雲が、ほわっと白く立ち上る。
「フライパンは、オリーブオイルを多めに引いておくんだ。しっかり熱してから、卵を流し入れる」
棚引く湯気が消える前に、大和は卵のボウルを傾けて、フライパンの真ん中に投入した。ジュワッと花火にそっくりな音がして、快晴の日を大雨の日に塗り替えるような賑やかさが、二人分の卵を苛めていく。熱々のオリーブオイルで泡立つ白身が、ウェディングドレスみたいに翻りながら、透明感を奪われて濁っていく過程を、あたしたちは最後まで見なかった。大和がフライパンに再び蓋をして、台所に静けさが戻ってくる。
「大和が料理を始めたきっかけって、何?」
「どうしたんだよ、突然」
「いいじゃん、教えてよ。知らないことが悔しいんだもん」
「子どもかよ」
「子どもだもん。子どもだから、あたしはまだ、諦めたくない」
フライパンの密室で、逃げ場のない二つの卵が焼ける音が、台所に揺蕩う静寂を乱していく。大和は、観念した顔でトースターに食パンを二枚セットすると「小学五年生のときの林間学校で、家を長く空けたときがあっただろ」と囁いた。
「覚えてるよ。四泊五日だったよね」
大和がいない間、大和のことばかり考えていたから。そう言葉にしてもよかったけれど、打ち明け話に耳を澄ませたいから、黙っていた。
「あのときの自炊がきっかけで、自立して家を出るなら、料理は必須のスキルだって、当たり前のことに気づいたんだ。早く身につけたかった俺に、母さんが最初に教えてくれた料理が、スクランブルエッグだった」
「スクランブルエッグ? 目玉焼きじゃなくて?」
「ああ。習いたての頃は、卵ひとつ満足に割れなくて、黄身を潰したから。海羽のことを笑えないな」
蓋から漏れた湯気みたいな温かさで、大和は笑った。大好きな表情をあたしに向けてくれたのに、傷口に塩を振りかけられたみたいに、胸がひりついた。そんなにも昔から、大和は家を出る気でいたのだ。あたしから、離れる気でいたのだ。
「そろそろ完成だ」
大和が、蓋を持ち上げた。湯気の霧が晴れると、二つの白身が作る白い海は、互いの境界線を失くしていて、程よく焦げた縁のレースは、小波の形を描いている。月と太陽みたいに離れた黄身は、燃え落ちる寸前の線香花火の色をしていた。
大和は満足そうに「成功だな」と言って、出立前に作る最後の目玉焼きを、サラダの隣に盛りつけた。ちょうど食パンも焼けたから、あたしはバターをひと欠片ずつ載せて、ダイニングテーブルに運んだ。
「いただきます」
並んで食卓に着いて、唱和する。完成した朝食は、明度を増していく朝日に照らされて、波打ち際の貝殻みたいに輝いた。目玉焼きに醤油を垂らしてから、あたしが養子だったことを知った夜のように箸を入れて、白身に卵黄を絡めて、口に運ぶ。
「美味いだろ」
得意げに言った大和に、うん、と答えたらよかったのに、あたしは兄とは似ていなくて、とことん諦めが悪いから、違う台詞を選んでいた。
「大和が好き」
あたしは、やっぱり利口じゃない。まだ子どもで、大人になれなくて、綺麗な目玉焼きを作りたくても、潰れたスクランブルエッグしか作れない。夢を叶える努力をしても、報われないことを知っている。それでも、どうしても、諦めたくなかった。
「あたしを、大和の彼女にしてよ」
「やめろよ」
返ってきた言葉は、今までにないほど強い拒絶だった。頭から血の気が引いたあたしは、大和を見上げて、茫然とする。大和は、苦しそうに目元を歪めて、兄の顔を捨てていた。あのときと、同じ顔だ。
「俺が、どんな気持ちで、ここから遠い大学を受験したと思ってるんだ」
「あたしのこと、そんなに嫌いだった?」
「違う」
大和は、いつかのように否定した。
「俺のことを好いてくれて、笑顔が可愛い妹のことを、嫌うわけない。俺は……妹ができて、海羽と家族になれて、嬉しかったんだ。海羽を家族にしてくれた父さんと母さんにも、ちゃんと言ったことはないけど、恩を感じてる。俺は、今の家族の形を壊したくないんだ。今の家族の形を、大切にしたいんだ」
「だから、離れるの?」
あたしも、いつかのように涙ぐんだ。
「好きって、言ってよ。あたしのこと、好きって言ってよ」
「海羽は、俺の妹だよ」
箸を置いた大和の指が、あたしの目元を拭った。涙の靄が薄らいだ視界からは、男の人の顔をした大和が消えていて、兄の仮面をつけ直した家族が、胸が苦しくなるほど優しい顔で笑っていた。
「妹なんだ」
独白みたいな台詞が、トーストに染み込んだバターみたいに、朝の静けさに溶けていく。そのとき、二階から足音が聞こえてきて、開いたリビングの扉から、寝ぼけ眼の両親が顔を出した。お父さんは「お、早いな」と感嘆の声を上げていて、お母さんは「あー、二人だけで先に朝ごはんを食べてる」と悪戯っぽく言ったから、大和は「作ろうか?」と鷹揚に言って、苦笑いをした。
「さっき海羽の分も作らされたから、二人分も四人分も一緒だ。なあ、海羽」
「……うん」
あたしも、涙の名残を指で拭って隠してから、兄に倣って、無理やり微笑った。
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