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 巽はゴム手袋を嵌めた手首で額を拭った。ロビーは熱気がこもっていて、蒸し暑い。仕事の規定で着るように決まっているジャンパーも素材が分厚く、暑かった。ふっくらした唇から、はあ、と息を吐く。  さらさらの黒髪に眠そうな、夢見がちな大きな目。漆黒の睫毛に小さな鼻と、あどけない容姿の巽。不思議と透明感があり、平凡な見た目ながら人目を惹きつける。華奢な体格で、オメガにしてはまあまあ高めの身長、一七〇センチだ。  ソファに座ったまま、双遇がぽつりと漏らした。 「ねえ、巽。考えてくれたかい?」  巽は振り向いて、落ち着かなげにジャンパーの裾をいじった。 「結婚のこと、ですか?」 「そう」 「でも、おれ……。お金ないし、美人でもないし、可愛くもないし、別にいいところ、ないし」  いつの間にか双遇がそばにいて、気配に気がついた巽はのけぞった。抱きすくめられ、目を瞠る。 「巽は可愛いよ。いい子だ。優しいし、ぼくにはないものをたくさん持っている。それだけで結婚する理由は十分だろう?」  巽はたたらを踏み、後ろに倒れそうになった。しかし、結局のところ、そうはならない。双遇が支えているからだ。双遇の腕の中でおずおずと、巽は口を開く。 「でも……おれなんかが双遇様のパートナーになったら、みんなに石を投げられちゃいます」 「大丈夫だよ、巽。ぼくが守るから。君を妬むやつらの好きにはさせないよ」  静かで穏やかな双遇の口調に、巽は苦しそうに口をすぼめた。鍛えられた双遇の胸を両手で押し、やっと抱擁から脱け出す。足元の汚れた白いスニーカーを見つめ、ぽつりとこぼした。 「でも、おれ……お兄ちゃんが、許してくれないと思うし」 「成市郎(せいいちろう)さん? 確かに、成市郎さんは君のことをとても心配している。でも、ぼくが誠実さを見せれば、心を変えてくれるんじゃないかな?」  双遇の口調は熱心だ。彼を遮ることができるものは、なにもなかった。例え地獄の炎だろうと、双遇を焼く前に水に変わる。少なくとも、彼はそれを信じているかのようだった。  巽はまたモップ掛けを再開した。力を入れて床を擦りながら、兄の顔を思い浮かべる。 「お兄ちゃんは、双遇様は負けたことがない人だから、そんな人に弟を任せるのは心配だって言うんです」 「確かにぼくは負けたことがないよ。それは認める。だが、人の気持ちがわからないってわけじゃない」 「それはお兄ちゃんも言ってました。負けたことがなくても、人の気持ちがわかる人は、確かにいると。おれも、双遇様はそうだと思います」  いまいち確信が持てないような口調だった。双遇はくすっと笑って、巽が床を擦るモップの柄に片手を添えた。 「巽。ぼくは邪魔しているね。仕事が終わったら、ホテルのスイートルームを予約してある。今夜はそこで過ごそう」  巽は赤くなり、無言で床を擦りはじめた。
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