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○  ホテル<Luxury House>は、神戸は元町の裏通りにあるさびれたラブホテルだ。双遇は黒崎に掛け合い、半ば押し切る形で巽と同じ時間帯にシフトを組んでもらうと、彼にいろいろなことを教えてもらいながら清掃の仕事を覚えていった。  巽から見る双遇は、清掃員の格好をしていても格好よかった。ジャンパーの下にワイシャツを着て、ネクタイを締めているからなおさらだ。コットンパンツを履き、黒い長靴を履いて、仕事に邁進している。  双遇の仕事の覚えは速くかつ確実で、さすが有能なアルファ、と周囲の人間を感嘆させた。  双遇は巽といっしょでも、私語はしなかった。ただ黙々と作業を行い、ベッドのシーツを替えたり、ゴミを捨てたり、トイレ掃除をしたりする。双遇様になんてことをさせるんだと、これまた周囲の人間が憤ることもあった。しかし双遇は終始機嫌がよく、これは自分の望んだことだと言って取り消さなかった。  ある日、巽が出勤すると(夕方のシフトだった)、週刊誌の記者が来ていた。 「空蝉製薬の御曹司『空蝉双遇(32)』、年下オメガのために職を捨てる!?」  最近、そういった記事が世間を賑わせているのだ。  巽の姿を激写する記者に巽が怖くなると、双遇が戸口の脇にあるスタッフルームから出てきて、記者を制した。 「話があるのはぼくだろう? こっちに来てください」  双遇にいざなわれ、記者は巽の顔をチラチラ見ながら玄関の外に姿を消した。特ダネに飢えた記者といえども、双遇の威光には逆らえないのだろう。  巽は激しく鼓動する胸を抱えたまま、しばらくその場に立ち尽くしていた。  そして、さらに日が経ったある日。この日、巽と双遇は午前十時からシフトが入っており、午後一時まで働いた後、休憩に入った。スタッフルームにはパソコンや、防犯カメラの映像を映すモニターが二台ある他、衝立で区切られて簡易のロッカーや、テレビや穴の開いたソファがある。どれも年季が入った代物だ。  そのごみごみした、ソファが置かれた一角で、双遇は持参のサンドウィッチを巽に差し出した。 「ぼくが作ったんだ。巽、食べてくれるかい?」  巽はうなずき、一口食べた。照り焼きチキンと茹で卵のサンドウィッチ。照り焼きのタレの味付けが甘辛く絶妙で、チキンはしっとり、卵もいい卵を使っているのか、味が濃い。茹で加減もばっちりだ。 「美味しい……」  目を瞠る巽に、双遇はうれしそうに微笑む。 「成市郎さんも料理が上手いって言ってただろう? どうかな? お兄さんを超えられそう?」 「双遇様は、お料理がとっても上手です。でも、お兄ちゃんもすっごくすっごく、上手いんですよ」 「やっぱり壁は厚い、か」  がっくりとうなだれた双遇に、巽は明るく笑う。双遇も顔を上げ、笑った。殺風景なスタッフルームに和やかな空気が流れる。パソコンの前にいてうたた寝していた黒崎が、それに気がついてニヤッと笑った。  巽は双遇とランチを交換した。巽の分は、兄が作ってくれた手製の弁当だ。おにぎり、卵焼き、唐揚げ、タコさんウィンナー、ブロッコリーと枝豆のサラダやニンジンのラペなど、栄養たっぷり、おまけに巽の好物の詰め合わせだった。双遇は美味しい美味しいと言って弁当を頬張り、巽を喜ばせた。  黒崎が席を立ち、部屋の見回りに出たところで、巽が口を開いた。このチャンスを待っていたのだ。 「双遇様は、ほんとにおれでいいんですか? 番じゃないのに」  双遇は目を瞠り、「なにを今さら」というように、こくりとうなずいた。おにぎりを飲み下し、 「もちろんだよ、巽。ぼくも空蝉家も、番には囚われない」  《番》はアルファ―オメガ間だけが結べる強固な絆のことだ。番になれば、恋人関係や婚姻関係よりもその繋がりは強固だと言われ、番の二人は「運命の二人」と言われる。番関係はどちらか一方が亡くなるまで続くほど強い。  双遇は箸で卵を挟み、再び弁当箱の中へ戻した。 「ぼくらは確かに番じゃない。でも、君が好きなんだよ、巽」  巽は灰色の瞳をじっと見つめ、両手を行儀よくテーブルの上に置き、囁いた。 「この前、記者の人が教えてくれたんです。双遇様にもその昔、番がいたって」  双遇の唇にうっすらと笑みが広がった。 「そうだよ。隠しているわけじゃない。ただ、みんな忘れているんだ」 「その人は双遇様の幼なじみのオメガ女性で、名のある家に生まれて、とても美しくて、可憐で、賢かった。双遇様とお似合いだと言われていた。お二人は成人したらすぐに結婚するつもりだった。でも、番のその方は亡くなってしまった。……自死されたんです」  そうだよ巽、と双遇は言った。穏やかな灰色の瞳は茫洋としていた。唇に薄い笑みが浮かんでいる。 「彼女は、名前を幸帆(ゆきほ)と言った。白い肌で、茶色の大きな目をした、おとなしくて可愛いらしい人だった。彼女はなにがそんなに苦しかったのかはわからないけれど、亡くなったんだ。遺書はなかった。ぼくの名前を書き残すこともなく、恨み言を吐くこともなく、愛の言葉を残すこともなく、亡くなったんだ」 「……つらいことを思い出させてごめんなさい」  うつむいて、巽が詫びた。双遇は「いいんだよ」と微笑む。 「彼女がいなくなってから、ぼくは充たされない。ぼくの中身は彼女が全部持って行ってしまった。空蝉双遇は抜け殻になったんだ」  それからしげしげと巽を見て、 「でも、君と出会ってからまた火が灯ったよ。君が治験に来てくれたとき。ぼくが一人一人にお礼の言葉を言ったとき、君だけがぼくの目を見て微笑んでくれたね。お役に立ててうれしいですと言ってくれたね」 「確かに言いました。おれは、よく覚えてます。双遇様は美しくて、優しかったから。でも双遇様がおれの言ったことを覚えていたなんて、不思議です」 「一目惚れだったんだよ、巽。天使だと思ったんだ。虚ろなぼくの心から飛び出して、降臨してくれた天使だと思ったんだよ」  双遇は相変わらず薄い笑みを浮かべている。巽は急に怖くなった。サンドウィッチを双遇のほうに押し返し、うつむいて、震える声で「ご馳走様でした」と言った。  双遇は笑ってうなずき、巽が食べ残したサンドウィッチにかぶりついた。  その夜、双遇はこのわびしいラブホテルの一室で、巽を抱いた。
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