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そう思えばきっと、大切なものが指の間から滑り落ちずに済むはずだ。
公生は努めて微笑み、愛人契約に終止符を打つ。
「あなたが偽悪的になってまで転職者を救い上げようとする人間であることは、もう知っています。ですが、その欲求に突き進めばいつかあなたが壊れてしまう」
高峯は静かに、言葉を紡ぐ公生の顔へ視線を注いでいる。
「昨日のようなことは、もう起こってほしくありません」
「私は自分を許すつもりはない」
「いいのです、許さなくても」
公生は断言する。
高峯を救おうとは思わない。そんなおこがましいことは誰もできないと、悲運に振り回された公生だけがわかっていた。自分の運命を救えるのは、たぶん、自分だけだ。
だが、高峯が公生を必死に救おうとしてくれたように、自分にも高峯にできることがあるかもしれないと思った。
「自分を大切にすることがわたくしや真鶴さん……部下や仲間を救うのだと思ってください。わたくしの仕事を減らすのだと思って自分の体を労ってください」
ふと、初めて高峯と会った夜の相合傘が思い浮かぶ。
高峯も同じ場面を思い出してくれているだろうか。世界でたった二人きりになった十数分を。
「あなたは一人ではないのです」
高峯は指輪を握りしめ、腕を目元に押し付けて視界を隠した。
「すまなかった」
その声が震えていることを指摘するほど、公生は野暮ではない。
「ありがとう、来栖」
「……もう一度寝てください」
公生が気を使いつつ低く進言すると、高峯は目元をこすって腕をどかした。
「その前に教えてくれ。通りすがりに私を助けてくれた人がいたと言ったが、名前は控えているのか?」
公生はとたんに、心臓を掴まれたような気分になった。すっかり意識の外に追いやられていたが、高峯を助けたのは──。
「懇親会会場のエレベーターであなたを助けてくれたのは、綱本社長です」
「なに?」
「あなたを助けたのは、綱本和馬さんです」
公生は運命──もはや因縁と言うべき相手に再会していたのだった。また道が交わってしまった以上、和馬を無視することは不可能だ。
「……そうか。後日、彼にはお礼に伺わなければな」
高峯の声は、ひどく低く掠れて聞こえた。
「いまは何も考えずに体を休めてください」
「わかった。きみも、くれぐれも休んでくれ」
高峯がおとなしくシーツの中で寝返りを打つのを見届けると、公生は小さく息をついて膝を抱えた。
一度は逃げた運命の人と、また出会ってしまった。連絡先を絶っても、新しい恋に出会っても、それを押し殺しても、また呪いのように。
ひどく疲れた。公生はよろりと起き上がってスーツのジャケットを手に取ると、寝室を出て扉を静かに閉めた。
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