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反転
再び携帯が鳴ったのは秋も終わり、長袖のシャツが恋しくなってきた頃だった。現実世界のあの人は相変わらず気紛れで、突拍子もないタイミングで連絡を寄越す。別れた後でも振り回される自分にいい加減に愛想は尽きているけれど、未来の存在が決心を鈍らせる。
ハッキリと線を引いてしまえば、『オレたちが電話越しに繋がる未来』が消滅しそうで怖かった。今が思い通りにならなくてもいいから、せめて希望だけは消さないで欲しかった。いつかあの人が振り向いてくれる万に一つもありえない可能性すら潰せない、自分の臆病さがほとほと嫌になる。
「よぉ、久し振り。元気か?」
いつもと変わらない声。だけどもうとっくに気づいている、未来が段々近づいてきていることに。
お互いの時間軸は初回からずっと確認していた。1度目は42年後、2度目は40年後、3度目はいきなり飛んで36年後。どんなに年を取ったあの人の声でも聞き分けられるのって凄くないか、とひとりニヤニヤしていられたのは最初だけ。確実に「今」に迫ってきている未来。前回は7年後、じゃあ今回は?
「こっちは2023年の秋です。そっちは?」
「2025年の春。桜がめっちゃ綺麗、めっちゃ咲いてる」
遂に2年後にまで迫ってきた。当然浮かんでくる疑問を無理矢理頭の片隅に押しやる。何度も何度も浮かんでは掻き消して、目を背けたいのに気づけば考えてしまう。
───あと何回話せるの。
未来が今を追い越すなんてありえるのだろうか。どこかの時点で『今』が『未来』に取って代われば、オレが話せるのは『過去』のあの人になってしまう。遡るほどに「オレを知らないアンタ」に近づいて、いずれこの通話自体が途切れてしまう。この奇跡みたいな時間をどうすれば引き止められる?ここ最近はそんなことばかり考えていた。
「……なあ、もうすぐそっちは」
そこまで言って唐突に黙り込むから、夜更けの静寂に気づいてしまった。きっと抑止力が働いて、言うべきではない何かを飲み込んだんだろう。あ、と声がした。カウントダウンが始まる。
「じゃ、またな。次に会えるまで元気で」
「はい」
ブツっと切れる線。いつの頃からか、定型句になった別れの言葉。次に会えるまで、がいよいよ現実味を帯びてきた今、あと何回あと何秒、アンタの特別でいられるだろう。込み上げる気持ちが溢れ出さないように、枕に顔を押しつけた。
あれ以来、ずっと怯えている。着信を知らせる光が赤じゃないと確認する度にそっと息を吐く。万国共通、古今東西、未来永劫、赤は危険のサイン。でもこれを逃したらもう話すチャンスはないかもしれないと思えば、震えながら緑のボタンを押すしかない。
「よぉ、久し振り。元気か?」
いつも通りのセリフで繋がったのは次の年の春。今は冬、もう季節ひとつ分もない猶予に背筋が凍る。自然とお互いの口も重くなり、さらさらと流れる砂のように時の粒が消えていく。ポツポツと続く会話のキャッチボール。最近食べたショートケーキが旨かったとか、もうすぐそっちはクリスマスだなとか、どうでもいい言葉はがりが並ぶ。
「……なあ、2020年の誕生日、憶えてる?」
「は?突然なに」
「あの日、何処にいたか憶えてる?」
「そりゃ、まあ……」
もういよいよダメになってきた2人が過ごした、最後の誕生日を忘れるわけがない。きっとこれが最後だとお互いに分かっていた。妙にめかしこんだ格好に着替えさせられ、タクシーに押し込まれ、行先も分からないまま向かったのは高級ホテルのレストラン。なんつーベタな展開だとエントランスで腹を抱えて笑ってしまった。勢いで流れたように見せかけた涙は袖口で隠した。食事の後は予約されていた高層階の部屋で付き合い始めた頃のように抱かれた。愛されているのかと錯覚するほどの熱が全身を包んで、今までの倦怠感は嘘なんじゃないかと思える、夢みたいな夜だった。
翌朝目が醒めて、自分が御伽噺のお姫様じゃなかったことに落胆した。そもそも魔法なんてかかっちゃいなかったし、伸びかけたヒゲを指先で擦りながらまだ眠りの中にいる恋人の同じように伸びかけたヒゲを見て、唐突にもうダメだと悟った。このまましみったれたオッサンになっていくオレがこの人を繋ぎ止めるってことは、しあわせな未来を奪うってことだから。逞しい腕を、盛り上がった背中を、長く伸びすぎた前髪を撫でて、もう解放してあげなきゃなあと声に出して呟いたらほろりと涙が零れた。夢から醒めた瞬間だった。
あんな夜を思い出させてどうしようというんだろう。愛しさと悲しさとが絶妙に入り混じったあの夜は、深い海の底に沈めた大切な宝物だった。
「待って……う……あ………」
突然回線が遠くなる。途切れて聞こえない、何て言った?耳を澄ませても聞き取れない。
「ま……っ………ぜっ………………っ、ま!」
「は?なに?」
ブツ。
「え?なんで?」
カウントダウンもなく切れた線。慌てて腕時計に目をやると残りは100秒、99秒、刻々と失われていく。ピっと停止するボタン。時を、止めた。
こんなことは今までなかった。『待って』と聞こえた気がしたが、未来について何か伝えようとしていたのか。あの誕生日の場所で待てという意味か?訳が分からない。得体の知れない恐怖が足元から忍び寄り、全身を凍らせていく。
もし禁止事項に抵触したのなら、もう二度と繋がらないかもしれない。心の準備もないままに突然迎えた終わり。何も出来なかった。失うことを恐れているクセにいつか来るその時を震えて待つだけで、気がつけば指の隙間から全てが零れ落ちていく。
───また次に会えるまで元気で
次はもう、ないかもしれない。
赤いライトはつかないまま、陰鬱な気持ちで日々は過ぎた。街は何処を歩いてもクリスマス一色、明日になればあっという間に片付けられて門松なんかが置かれ始める節操のない風景も実は嫌いじゃない。でもひとりで過ごすのはやっぱり虚しい。とりあえず食料調達の為に外に出たはいいが、きらびやかなイルミネーションに閉口してコンビニに足を向けた。安っぽいサンタの帽子とヒゲをつけさせられた店員さんに必死な形相で勧められた、一人用のショートケーキ。小さな三角形を入れた袋を揺らさないようにゆっくり歩く。
交差点まで来ると、信号がチカチカと点滅を始めた。いつもの自分ならせっかちに渡るところだが、今夜はケーキがある。少し手前で足を止め、対面にあるビルに取り付けられた電光掲示板に流れる浮かれたメッセージをぼんやり見ていたら、空気を切り裂く破裂音が飛び込んできた。視界を横切ったのは、無人の交差点に突っ込んでくる紫の車。点滅する信号。ブオンっと煙を吐き出して走り去っていく残像。呆気にとられて固まったところで、思い出したように信号が赤に変わった。
「え、あっぶな」
「なにあの暴走車、やっば」
「ブレーキなしで突っ込んできたじゃん」
ザワザワとし始めた周囲、遅れて聞こえてきたパトカーのサイレン。何かあったのだろうか。いや、それ以前に。
───危なかった。
いつもの要領で点滅中の歩道を渡っていたら、確実に轢かれていた。血だらけで横たわる自分の姿が鮮明に思い浮かぶ。一歩間違えれば死んでいた恐怖に肌が粟立った。今この瞬間、生きていられるのが嘘みたいだ。ガクガクと震える膝を手のひらで押さえつける。カサっと袋の中でショートケーキが倒れた。そういえば電話であの人が話していたことを思い出し、何となく買ったヤツ。普段は食べることのないこのケーキがなければ、今頃。
「……え?」
何かが引っかかった、と同時に閃いた。
もしかして。今までの通話が走馬灯のように脳内を駆け巡る。徐々に迫ってくる時間。突然振られる脈絡のない話題。何度も飲み込まれた言葉。途切れた『待って』の意味。もしかしたら。
耳元で蘇る、現実と変わらないあの声。
───誕生日を過ごした場所
忘れるワケないだろ。
口唇をギリっと噛み締めて正気を呼び起こす。
誕生日まであと7日。オレがすべきことは。
夜の7時半過ぎ。不夜城東京はまさにこれから、という時間帯。懐かしささえ覚えるエントランス近くの植え込みに立ち尽くす三十路も近いニートことオレは、吐いた傍から凍りそうな息を虚空に放って、チラチラと腕時計を確認する。あの日の予約は確か8時で、記憶の中の自分は不機嫌そうで、とてもじゃないけど祝ってもらおうって人間の顔じゃなかったこともついでに思い出す。
あの夜以来、電話は鳴らない。知らぬ間に未来を捻じ曲げてしまったのなら、新たな分岐となったこの先の展開は誰にも分からない。そろそろ交わるはずの時間軸の向こうにきっともう、あの人はいない。
つまりは、お人好しなあの人が運命に逆らってまで助けてくれようとした、ってことなんだろう。別れた恋人とはいえ、放っておくのは寝覚めが悪かったのか。ドクドクと動いている心臓に手を当てて、まだ生きていることを実感する。
あの日からずっと、信じてもいない神様とやらに真剣に祈った。未来を変えてしまった罰ならオレが引き受けるし、死ねというならもう一度死ぬからどうか、あの人が無事でありますようにと祈り続けた。一目でいいから無事な姿が見たかった。そしてそれはきっとあの人も同じことだろう。
鬱蒼としたビル街、星の見えない夜空、凍てつく北風。運命も神様も信じちゃいないけど、もしも奇跡ってやつが起こるなら今夜しかないだろう。
ブルっと震えたポケットに手を突っ込んだ瞬間、ジャリっと砂を踏む足音。そこからはスローモーションだった。
取り出す携帯に光る赤いライト。黒いスーツに磨き込まれた革靴、ハァっと吐き出される息、シトラスの香り、見覚えのあるコートにネクタイ、袖のカフスと少し浅黒い肌、長い前髪をよけて耳に当てられた携帯。ハート形の口唇が弧を描く。
ゆっくりとボタンを押して、冷たい耳に当てた。
目の前で、耳元で、二重に聞こえる、
世界で一番好きな声。
「また、会えたね」
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