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逆行
ある時から俺の携帯は未来と現在を行き来している。
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番号無しの着信。表示されるのは「公衆電話」の四文字だけ。聞こえてくるのは、かつて別れた恋人の声。
バカみたいに期待に脈打つ胸を押さえながらボタンをタップする。
「お、久し振り。元気してたか」
「お久し振りです」
今何処にいるのか、話していても平気か、なんて気遣いが出来る人じゃない。少なくともオレにかけてくる時は自分との通話が最優先されて然るべきだって声音で当たり前のように話し出す。そのクセ、丁度ひとりでいるタイミングでかかってくるのだから始末に悪い。
チラリと時計に目をやると針は丁度90度で重なっている。ここからきっかり5分、未来と今を繋ぐ逢瀬はたったの300秒で終わりを告げる。
「今何処っすか」
「ん-と、大学近くのコンビニ。懐かしくて肉まん買っちゃった、バリあったけえ」
かははっと渇いた笑いが深夜に響く。
「アンタ今幾つなんすか」
「2030年だから36。ちなみに12月の頭」
そんな季節に外で5分も話していたら肉まんだって凍ってしまうだろうに、寒いとブツクサ文句を垂れながら切る気配はない。
「こっちは2023年の5月」
「あ、じゃあまだバリバリのニート期間だな」
「うっさい」
何てことはない話をして時間が来たらアッサリと電話は切れる。余韻も何もあったもんじゃない。300秒のカウントダウン、残りはあと何秒?
未来からの連絡といえども何ら有用なネタは提供してくれない。というか、出来ない仕様になってるらしい。過去の相手に対して今現在の話をしようとすると急に喉が詰まったように言葉が途切れ、何度口を動かしても音にならないらしい。何かしらの抑制力が働いているのか、神の采配か、決して未来の情報は手に入らなかった。
何の仕事をしてるのか、結婚はしたのか、子供は、世界情勢は、この国はどうなっているのか。知ってしまえば悪用も出来るだろう情報はひとつも漏らせないのに、昨日食べた夕飯は何だったとか、花見に行った時の満開の桜がどれだけ綺麗だったとか、そんなどうでもいいことばかりが口を突いて出るという。
今夜も、あの人にとって過去にいるオレに語れる内容など大してなく、思い出話だけで盛り上げるのもなかなか難しい。ましてや、既に別れてしまった恋人同士なら尚更。
オレたちが付き合い始めたのが大学1年の頃。別れたのは心身ともに壊れた俺が2年遅れで卒業した春。都合6年間を共に過ごしたわけだが、知り合ったのは恋だの愛だのと色気を出し始めるよりずっと前の中学生の頃だった。同じ部活の一年先輩だったあの人に憧れて、お気に入りの後輩から恋人に至るまでの涙ぐましい道のりは思い出すのも嫌で記憶の底に封印してある。
電話の向こうの未来では『もう別れてしまったオレたち』が共通認識であるが故に、気軽に喋れた。別れた理由は何だと散々周囲にも問い質されたが、歯切れのいい答えは返せた試しがない。浮気されたわけでもなければケンカ別れしたわけでもない、ただただ気づいてしまったのだ、この関係に『未来』がないってことに。それでもどうにかこうにか続けられないか、何ならセックスなんて要らないからルームメイトあるいは親友くらいの近さで存続できないか、とあの人の優しさに縋った結果心身ともに壊した挙句、最後はオレより疲れ果ててしまった姿を見るに見かねて自分から別れを切り出した。
───もう無理ですよ、終わりにしましょ
───お前はそれでいいの
ダメだともイヤだとも言われなかったのは肯定と同じ。選択肢なんてとっくになかったのに、同情してくれたあの人が手を離さない振りをしてくれていただけ。それが分かっていても尚、愚かな希望を持ち続け、結局は自分からギブアップした形で終わった。
別れた後は何も残らなかった。仕事も家も友人関係も全て新品に取り換えてみても、心ってやつは一向に回復しない。どんな優秀な医師だって手の施しようがないと匙を投げるに違いない。修復不能に陥って、当の本人すら処置なしと諦めたくらいだ。廃人ってこういうことか、と渇いた笑いが漏れた。
それでも人生は終わらない。あの人の貴重な時間を6年も浪費したことについては償いの仕様もなかったが、まあオレの打ちのめされ具合の方が遥かに酷かったんだからそこは痛み分けってことにして欲しい。恋は惚れた方が負け、とは箴言だった。だから後世に語り継がれているんだろう。
別れた後も風の便りで元気にしているとは聞いていた。腫れ物扱いではあったが心配して何くれと世話を焼いてくれる友人もいたお陰で、2回目の桜の季節を迎えた頃にはまた何となく挨拶くらいは交わせるまでになっていた。決してあの痛みや苦しみを忘れたとか、過去を水に流したとかじゃなく、ただ大人の振りが上手くなっただけなんだが。
今のオレは勤めていた会社も辞め、ニートみたいな生活をしている。手切れ金のような退職金が日に日に目減りしていく通帳残高を見ても、何もする気が起きなかった。暇なら飲もうぜとかつての友人に誘われて行った飲み会で、あの人に出会った。
───よぉ、久し振り。元気だったか。
ついこの間会ったばかりかと錯覚するほど気軽な挨拶に、吐くかと思った。でも擬態が上手くなったオレは少し困った笑みを浮かべて頷くことが出来た。それを和解のサインと解釈したのか、周囲も気がねなく誘えるようになったことにホッとしたようで、時折声を掛けられるようになった。先週も一緒にフットサルをしたばかりだ。ギリギリの距離感を保ったまま、そこそこワケありみたいな顔をしているオレたちは皆の目にはどう映っているのだろうか。
しんどくなかったと言えば嘘になる。でも、
会いたくなかったと言っても嘘になる。
引き裂かれてボロボロになった布みたいな心臓がまだ正常に動いているなんて信じられなかった。こんなに胸が苦しいのになんでまだオレは生きているんだろう。湿った匂いのする夜風はもったりと肌を撫でていく。この不思議な回線の向こうでは肉まんも瞬く間に凍える寒さに、白い息を吐くあの人がいる。
「あ、そろそろ時間だわ」
今日もどうでもいい話をして終わった。あの人の方では何故か10秒前になるとカウントダウンが始まるという。ピッピッと、オレには聞こえない電子音が鳴り始めるらしい。未だ見ぬ未来から届く声は不必要なまでに明るくて、オレの不在はあの人の人生に1ミリのダメージも与えていない事実にまた打ちのめされる。
「じゃ、またな。次に会えるまで元気でな」
「ああ、また」
あっさりと切れる電話。次会える時って所詮携帯越しなのに。ため息と共に腕時計のストップウォッチ機能を止めた。電話がかかってくると残り時間を計るようになったのはいつからだろうか。つける趣味もなかったのにあの人と色違いのダイバーズウォッチまで買って、失われていく一秒一秒を惜しむように目にも止まらぬ速さで時を刻むデジタル表示を見つつ、300秒の残りを数える。我ながら女々しいことこの上ない。
7年後の12月、その頃のオレは何をしているのだろう、迫りくる誕生日を誰と過ごすのだろう。何も分からない、分からないからこそ希望が持てる。電話を切ったあの人の向かう先にオレがいたりはしないだろうか、と愚かな夢を見ていられる。望んで電話をかけてくれている訳でもないのに。
───何で電話なんかしてきたんすか。
当たり前の疑問をぶつけたのは初回の電話。見たこともない"公衆電話"なんて通知に首を傾げながらもタップした緑のアイコン。耳に届いた、もしもし?と探るような声音に胸がドクっと波立った。は?なんで?アンタから電話なんてどうして?と畳み掛けたオレの声に息を飲んだ気配がした。訪れた数秒の沈黙、そして恐る恐る呼ばれる名前。訳が分からなかった。
要約するとこうだ。夜道を歩いていたら今時珍しい電話ボックスが立っていた。こんなのあったっけ?と訝しみつつ通り過ぎようとした瞬間、けたたましい音が鳴り響いた。呼び出し音だと気づくまでに、ゆうに数十秒はかかったという。辺りを見回しても誰もいない、近隣の家から出てくる者もなく、暫く待ってみても受け取り手は現れない。もしや緊急事態なのか?と無視することも出来ずに、恐る恐る受話器を取り上げた。デジタルの表示板には赤い5の文字が浮かんでいた。
そして繋がる、過去との回線。
それ以来、夜道を歩いていると忽然と電話ボックスが出現するようになったらしい。場所も近所とは限らず、仕事帰りだったり、出張先だったり、友人と遊んだ帰りの駅までの道すがらだったりするらしく、突然パッと目につくという。ただいつでも、ひとりの時に限って鳴るらしかった。
───何すか、そのオカルト展開。無視すりゃいいのに。
───なあ?怖ぇよな?でも、タダで過去のお前と話せるってのも意外と悪くないかなって。
はにかむような口調に喉がグッと変な音を立てた。ホント、アンタって人は最低最悪の人たらしだ。
もう両手でも足りない着信履歴。頻度はまちまちで、話した3日後にかかってくることもあれば季節をまたぐこともあった。こんな不可思議な関係が1年以上も続いている。ちなみに、今同じ時間軸を生きている『あの人』にこのことを告げようかと何度も思ったが、結局今日まで何も言えていない。ただ怖かったのだ、本人に話すことで何らか運命の抑止力みたいなものが働いて『特別な線』の繋がりが消えてしまうのが。
「……誕生日おめでとう」
強く携帯を握り締めていた手を緩めて、後ろ向きにベッドに倒れ込む。待ち受けに表示される、さっき変わったばかりの日付。言わなかった、いや言えなかった祝福が呪いのように跳ね返ってくる。何処かで誰かとしあわせに過ごしている現在のあの人を想像して口唇を噛む。目を閉じて世界を遮断した。
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