GRAFTING~接ぎ木の記録~

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 二人が帰るのを見送り、ベッドから立ち上がる。すぐに気付いてこちらを向いた看護師に声を掛け、トイレの場所を確認した。  部屋を出て左へ。白い壁、白い天井。材質は違えど床も白いので、歩いていると浮いているような気がした。  一つ目の角を右へ曲がり、壁の切れ目から中の通路へ。すぐに扉が三つあり、黒い人型のピクトグラムが描かれた扉を開けると、個室が三つあるトイレにあった。  問題なく用を足し、手を洗う。久しぶりに触れる水が心地良い。ずっと眠っていたとは思えないほど身体はさっぱりしていたが、それでも自分で洗うとようやく綺麗になったような気がする。  再び廊下に出た。特にふらつくこともなく、痛みもない。今すぐ退院しても問題ないように思えた。記憶を除けば。  看護師から行動許可の出た範囲はこのトイレまでと、反対側が病室を出て右にある自動販売機のエリアまでだ。試しに飲み物でも買おうと自動販売機に向かう。  自分のいた病室を過ぎて少し歩くと、大きな会議室くらいの広間に出た。壁際に三つ自動販売機が並んでいる。缶とペットボトルの自動販売機が二つと、その場で注ぐタイプの紙コップの自動販売機が一つ。この広間にも窓はない。ここに来る間もすべて白い壁で、窓はなかった。いくつか扉はあったが、ネームプレートなどはなく、自分のいた部屋以外に人の気配はまったくない。扉もすべて白いので、距離感が狂いそうだった。  自動販売機と反対側に、廊下より少し大きな白い扉がある。それがどこへ繋がるか分からないけれど、これより先に進む許可は出ていないので、視線を自動販売機へ戻した。他に見るものがない。 「おや」  やわらかな声がフロアに響く。今まで人の気配がなかった場所に、色素の薄い長髪を揺らし、男性が立っていた。整った顔に微笑みを浮かべ、こちらを見ている。 「あの……」  肌も白く、瞳は青みがかった薄い色。着ているものは他のスタッフと同じようで、白衣というよりはコートのような形をしていた。すべてが淡い色をしていて、そこにいるのにいないように思える。身長は自分と同じくらいだろうか。 「また、会えたね」  静香と似たような言葉。それなのに、今度は胸まで届く。じわりと身体が暖かくなる。  踵を返し廊下へ消えていく彼を、慌てて追った。 「待って……!」  彼は答えずに廊下を進む。トイレに向かう角を通り過ぎたけれど、そのまま追い掛けた。  見失ったと思うと、少し先に立っている。そしてまた歩き出す。追いつけない速さで。いないと思うと今度は開いている扉があり、その先に彼の背中が見えた。  そうしていくつか扉を潜ると、彼の背中がなくてもどこに向かっているか分かるようになった。  彼が次にいるのはこの向こう、そう思って角を曲がったとき、「またね」とあのやわらかな声が聞こえた。語尾が空気に溶けるように消えていく。 「いた!」 「っ、佐藤さん!」  辺りを見回す前に背中から呼ばれ、あっという間に身体を押さえられた。全員、あの病室にいたスタッフだ。 「まだ本調子ではないんですから、外は危険です」 「戻りましょう、佐藤さん」  何度聞いても自分に馴染むことのない自分の名前。四肢を押さえられたまま首筋にちくりと感じた痛みを最後に、意識が沈んでいった。  目を覚ますと、ベッドに横たわっていた。見上げても時計はなく、時間が分からない。  頭の中に黒い霧があるようで、思考が上手く働かない。さっき、やっと会えたと思ったのに、誰だったか思い出せない。そうだ、記憶喪失だった。分かるはずがないんだ。  相変わらずの白い視界は、やはり現実味がない。自分がここにいることを不思議だと感じる。  会いたい、と思った。 ――またね。  優しい声が脳内で再生され、それは爽やかな風となって霧を晴らしていく。  すっきりとした頭で考える。彼が、「現実」だ。それだけは確かな気がした。  カーテンの向こうには相変わらず数人の気配があり、その意識がすべて自分に向けられているように感じる。 「佐藤さん、目が覚めましたか?」  穏やかな声。一定の。作ったような。  ゆったりとした動作で開かれたカーテンから覗き込んだ看護師は、マネキンのような起伏だけのある白い顔で、たぶん笑った。  そこには目も鼻も口もなく、つるんとした凹凸だけ。それでも、こちらを見ている。 「おはようございます」  看護師が言えば、続々と別のスタッフの声もした。すべて穏やかで、平坦だ。自分を捕まえたときのような焦りは少しも滲んでいない。  背中を一筋の汗が流れた。
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