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ここはICUになるらしい。
目が覚めてから、カーテンの向こうにはまだ出ていない。誰かが出入りするときにできる隙間からは離れたところにある白い壁しか見えず、常に誰か人がいる気配はするのに、自分以外の患者らしき声や、自分に繋がれている以外の機械の音は聞こえない。随分な特別扱いだ。病院に関しての記憶も自分に沿ったものは思い浮かばないので、そういうものなのかもしれないけれど。
見回してみても時計がない。自分が繋がれている管の先はカーテンの向こうで、ディスプレイのようなものもない。上半身を起こしてみても、カーテンやベッド以外に見えるのはカラフルな管と自分の身体だけ。まるで縛り付けられているようで、ガリバー旅行記を思い出す。
ガリバー……いつどこで読んだのだろう。
自分がどんな顔なのかを知りたくても、鏡もない。自分を見たとき、自分だと判断できるのだろうか。
照明以外の灯りがないので、今が昼なのか夜なのかも分からない。
「あ、あの……」
水分はとったけれど、あまりに喋らないので、相変わらず声は掠れていた。すぐに一人近付く音がして、カーテンの合わせ目を凝視する。
「佐藤さん、どうしました?」
数人見ている看護師の中で、一番年上に見える女性が入って来た。その動きには隙がなく、カーテンの向こうはほぼ見えなかった。
年上と言っても、母さんよりは若い。全体的にこの部屋に出入りしている人は若く見える。
「今って何時ですか?」
看護師は腕時計を確認し、「夕方の五時十七分です」と教えてくれた。相変わらず穏やかな起伏のない声だ。
この病院の方針だろうか。皆似たような話し方をする。それが少しテーマパークを思わせるけれど、テーマパークを思い浮かべるとすぐ思考に霧が掛かり、頭がツキンと痛んだ。
「っ……ありがとうございます」
「……いえ。他に何かありますか?」
「いいえ」
頭痛のことは伝えずにいると、気付いた様子を一瞬見せたのに彼女はそのままカーテンの外へ去って行った。
上半身を倒して枕に沈む。頭痛はもう引いていた。
夕飯は六時とさっき聞いた。もう少しといえばそうだが、何もすることがないと長く感じた。仕方なく目を閉じる。
電灯の角度を変えてくれたので、明るいけれどさっきよりは眩しくない。意識が戻るまで散々眠っていたからか眠気は遠いけれど、目を閉じていると身体の疲れを実感し、今度は目を開くことが億劫になった。
視界を閉ざすと、耳が余計に音を拾う。
やはり、ここには他の患者の気配がない。隔離されている感じでもないのに。拘束されているわけでも、密閉されてもいない。医師や看護師も防護服のようなものは着ていなくて、マスクすら付けていなかった。
胸から下しか自分では見えないけれど、それほど重傷だったようにも思えない。肌は見える範囲すべて傷一つなく綺麗だ。
そろそろ食事の匂いがしてもいいだろうに、ここは消毒液の香りしかしないから、嗅覚から得られる情報はない。
しばらくして出てきた食事は、いかにも病院食といったものだった。もう一度時間を聞くと、六時ちょうど。ここが最初に配られる部屋だとしても、随分時間にきっちりした病院だ。
味も香りも薄く、量も控えめ。食べてみると、不味いと感じるものはなかった。自分の好き嫌いについても忘れてしまっているので、食べてみないと分からない。嫌いなものが見つからない代わりに、好きだと思うものもない。食事は、こんなに面白みのないものだっただろうか。
食べ終わると、眠くないと思っていたのにあっという間に意識が沈んでいた。
目が覚めると、カーテンレールに壁時計が取り付けられていた。時間は六時過ぎ。昨日は六時に夕食を食べてから眠ったのだから、おそらく朝の六時。半日も眠っていたらしい。
早朝なのに、カーテンの外は相変わらず複数人が動く気配がある。
朝の食事は八時。またやることがない。そしてもう眠くない。
試しに身体を動かして見ると、昨日よりもスムーズに動いた。これならばとゆっくり起き上がり、足をベッドから下ろしてみる。尿道に入ったカテーテルで違和感はあるけれど、問題なく動いた。
回復の早さに自分で驚くが、元々怪我もなく、機材がついている様子もなかったのだ。起きたばかりで身体が慣れていなかっただけかもしれない。
後ろ手を付いて立ち上がってみると、問題なく立ち上がった。ふらつきもない。歩くのはまだ怖いが、この時間にスタッフの誰かを呼ぶことも気が引けた。
一歩前に出てぐらつかないことを確認し、カーテンの端を掴んで、その隙間から外の様子を覗く。ベッドは部屋の隅にあるので、ここからは部屋の全体が大体見渡せる。部屋は通常の数人が向かい合わせにベッドを並べる病室と同じくらいの広さだった。
部屋には二人の医師と看護師が一人いた。部屋の壁に黒いガラスが見え、その横には扉がある。部屋か廊下か。おそらく部屋だという気がした。
自分から出ている太い透明の管を見下ろす。カテーテルが差し込まれているから、尿意を感じることはない。けれど、これだけ動けるのならトイレには自分で行きたいと思う。
カーテンを人が通れるくらいの幅まで開ける。
「あの……」
普通に仕事をしているようなので、申し訳なさそうにしつつも声を掛けてみた。看護師だけが振り向く。まるで事前に呼ばれることを分かっていたかのように。そういえば心電図と思われるコードが繋がったままだ。起きて動けば、分かるのかもしれない。
「どうかしましたか?」
「トイレに、行きたいなって……」
おずおずと伝えると、看護師は医師へ目配せをした。医師から戻った視線に頷き、こちらへと歩いてくる。あれで連携が取れているのはすごい。
「もう少しだけ待っていただいてもいいですか? 転んでしまうといけませんので」
「……はい」
大丈夫だと自分では思うけれど、素人が主張することでもない。大人しく引き下がり、看護師に支えられながらベッドへと戻った。
時計が八時を指し、また時間ぴったりに朝食が運ばれてきた。
朝食を食べ終わり、ベッドの上半分を起こして背もたれにしたままぼんやりと午前中を過ごした。
そろそろ昼食だろうかと時計を見上げたとき、カーテンの向こうから「佐藤さん」と呼ばれた。時間は十一時半。
入って来た医師の回診らしきものを受け、病棟内の決まったエリアならと動く許可をもらった。医師が去ったあと、看護師に尿道カテーテルを外され、多少の不安を感じながらもほっとする。
「面会の方がいらしてるようですよ」
良かったですね、と看護師の笑顔が言う。そう決められたような表情と、なんとなく感じてしまう。ここにいるスタッフは本当に起伏がない。忙しそうな様子もないし、決まった数人が交代で常駐しているようだ。
あまりのVIP対応に、入院費が不安になる。身体が思うように動かせることで現実味を感じるようになったからこそ、ここでの非現実的な生活が身体に馴染まない。
病室の扉が開く音に、耳がぴくりと反応する。
「失礼します」
昨日と同じ、母さんの声。スタッフの声はせず、すぐにカーテンから母さんが顔を出した。続いて、若い女性がゆっくりと顔を出す。不安そうな表情は、視線が合うと安堵したように緩んだ。
「哲太さん……っ」
顔を見るなり彼女は大きな目に涙を浮かべ、顔を俯かせた。長い髪が顔に掛かり、表情が見えなくなる。
彼女の肩を抱き、母さんはベッドの脇に備えられた椅子に座らせた。ベッドの下からもう一つ椅子を出し、自分も座る。椅子が複数あることに気付いていなかった。今までは母さんか、医師か。一人が座れば他は立っていた。
「哲太、静香さんよ。あなたの彼女の」
「良かった……、目を覚ましてくれて……っ」
嗚咽混じりに良かったと繰り返す静香に、どうしていいか分からず戸惑う。やはり、自分の恋人だという実感はない。
「ごめん、まだ思い出せなくて……」
「ううん、いいの。また会えて良かった」
なんだか、遠い。記憶がないせいなのか。彼女の言葉が、自分に向けられていないような感覚がした。
「そのうち思い出すわよ」
左右に首を振る静香の背中に手を添え、母さんが優しくそう言う。ふと気になり、母さんをじっと見つめた。やはりこちらも、自分の母親だという実感はない。
「母さん」
「なあに?」
「俺の、父さんは?」
いくら平日でも、ずっと眠っていた息子が起きたなら、父親だって面会に来そうなものだ。それがいないと言うのなら、何かしら理由がありそうに思えた。
母さんと静香が目を合わせ、少しの間病室がしんと静まりかえる。まずいことを聞いたのだろうかと思っていると、母さんはまたふわりと穏やかな笑顔を浮かべた。
「今日はちょっとどうしても来られなくて。明日は来ると思うわ」
「そっか」
父さんは普通に存在しているらしい。首を傾げる。
「二人、すごく仲が良いんだな」
母親と息子の恋人。いくら学生時代から付き合っているとはいえ、目配せするほど仲が良いなんて。
「……え?」
「わかり合ってるみたいだったから」
「それは、あなたたちは付き合いが長いし」
長いと言っても大学時代からならせいぜい四年やそこらだ。すでに婚約をしているのだろうか。
考えれば考えるほど、まるで他人事と思っている自分に気付く。
それから小一時間ほど思い出話をして、二人は帰って行った。
思い出話は、出逢いから順に、時間を追って。大学一年の頃に同じ講義を受けていて隣りの席になり、話が弾んだ。最初のデートは水族館で、その帰りに哲太から告白をした。卒業後はそれぞれ別の会社に就職をしたけど、一週間に一度は会っている。事故に遭った日も、デートの帰りだった。
恋愛ものの小説でも読んだ気分だった。
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