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自分に対して、価値があるなどと思ってはいけない。正解などない人生の中で、幾度となく感じてきたことだ。
己の代わりはいくらでもいるし、己の価値を示す賃金は上がらない。幸いぎりぎりのところで雇用は継続されているが、それほど期待されていないことも知っている。面談後いつも返却される目標達成度は、無難のBが並んでいる。
死ねるほど勢いもなく、かといって生かされているという実感もなく、ただただ、俺は日々を浪費していた。
どうせなら、きれいなお姉さんとやらと付き合いたいと思っていたが、そんな時間帯に職場を去ることもできず、今日も残業の末、電車に揺られていた。
まぶたの重さを感じたのはそれから間もなくのことだった。
――あれ、と思う。
寝ていたはずの電車の車両内に、だれもいない。終点まで来てしまったのだろうか。立ち上がろうとしたが、なんとなく落ち着かなくて、そのまま座ったままでいる。状況を確認しなければ、と周囲を見渡してようやく、俺以外の乗客に気がついた。
目の前にひとり、座っているひとがいた。
おそらく女性。
窓ガラスと同じ方向に座るタイプの車両だから、本当に、対面のようなかたちで彼女を見ることになる。さきほど、不要なことまで考えてしまったからだろう。俺は彼女の姿から、目を離せないようになっていた。
最初は白くてキレイな姿だったから、きっと彼女、でいいのだろうと思う。
まるで脱皮したてのいきもののようなつややかさだと思った。ごくりと、喉が鳴った。その音に気付かれてしまったのだろうか。彼女が伏せていた目をこちらに向ける。見ている。俺を見ている。
「……っ、あ、あの」
「ああ、すみません。私のこと、気になりますよね」
「いいえ……あ、いや」
「大丈夫です。あなたは安心出来るひとだから」
「……はい?」
彼女の声は、とても遠くに聞こえてくるようだった。わからない。彼女のいう安心が、何を指しているのか。
不安。そうだ。俺の方は不安なのだ。だから、こうして逃げるのではなく、相対することを決めた。見続けてさえいれば、何かに気付くことができる。
「ふふ」
「ええと、すみません。なにが」
「あなたはとっても純粋ですね」
彼女は立ち上がる。ゆらりと、長い髪が、流れる。見えていたはずの黒くて長い髪が、蛍光灯かLEDの反射で白く光る。
腰ほどまでと思っていた髪も、どうやら、膝丈ほどの長さのようだった。そういった外見の情報は認識できるのに、俺は指先ひとつ、動かすことができない。
「あなたの見えているものを、少しだけ、いただきますね」
「……?」
口が、動かない。彼女が言っていることも理解できない。がたんごとんとゆれているはずの電車のゆれさえ感じることができない。なにか見え方がおかしい。これは、夢なのか現実なのか。それを確かめようと思ったときには遅かった。
立ち上がった彼女が半歩ずつ、俺のところに近付いてくる。
目の前に立つ彼女を、俺は見上げることしかできない。電車の中のはずなのに、彼女の顔が〝高すぎて〟見えないのだ。
天井の先も見えない。
真っ暗闇が、俺を見下ろしている。
「……っ」
ただの恐怖を俺は感じて、いる。
「ふふ、いただきます」
見えないところでがばりと口が開いた音がする。
俺を飲みこまんとするおおきな、ひろい、口がみえないところにある。しゅうしゅうと、遠くで反響する音が、聞こえてくる。
ぴちょんぴちょんと滴っているのは、きっと彼女だったものの唾液。認識はできている。できているのに動けない。眼球だけは動かせる。
見上げてはいけないと思っていたのに、空気の流れを感じて、俺は上のほうを見上げてしまった。
「ひっ」
それが、完全に。赤ではないいろに、染まっていたのだった。
――ガタン
「うわ」
思わず呟いた声が思いの外響いたようで、自分の周りにいた乗客が一斉に俺に視線を向ける。
ああ、へんな夢を見た。あんな世界、あるはずがない。残業のしすぎで脳がバグってしまったにちがいない。
ちら、と案内表示を見れば、最寄り駅まであと二駅ほど。まだ多少余裕はある。長めに息をついて、改めて周囲を見渡す。見慣れた乗客らばかりが載る車両に、なんら違和を感じることもなく、残り一駅まで運ばれている。なんだろう。
この恐れは、なんだろう。ぷしゅうと扉が閉まる音に、背中がびくりと震えた。
さっき見た夢のせいだろうか。
――いや、さっき夢なんか、見ていたのか?
不思議だった。ふしぎと膨らんでいった。
それが大きく、強く。かみついてくるのかと思ったうちに、再度、目が〝覚めた〟。
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