一章 高遠千秋

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   1  好きな映画を訊かれ、咄嗟に言葉が出てこなかった。  完全個室を売りにしたモダン調の居酒屋は、サークルのOBがやっているので貸切料金を安くしてもらえたのだという。新歓をやるにはかなりオシャレな場所だと思っていたので、事情を伝え聞いたときにはそういうことか、と合点がいった。  店側の配慮か、どの部屋にも行き来しやすいようにと扉は全開になっていて、時折グラスを片手に顔を赤くした先輩が踊りながらやって来たりした。私に好きな映画を訊いてきたのも、まさにその踊りながらやって来た先輩の後ろにくっついてきた人だった。みんなの輪に加わらず、黙々とフライドポテトを食べ続けていた私に気遣ってくれたらしい。  金髪のマッシュルームカットという奇抜なヘアスタイルから「軽薄な人に違いない」と斜に構えてしまったが、先輩はこちらの反応を目の当たりにするなり包容力のある笑みを見せた。 「じゃあ俺から言おうかなぁ」  優しい人じゃん、と瞬く間に猛省する。  しかし、タイトルを言われたところで「ああ、あれですね」と理解できる自信はなかった。  そもそも私は映画が特別好きだというわけではなかったのだ。  私を誘い、断っているにも関わらず無理やり連れてきたのは、同じ高校からともにK大へと進学してきた同級生だった。高校時代は挨拶をする程度の仲だったけれど、やはり顔見知りの存在は大きいらしい。ちなみにその子は現在、映画について饒舌に語る先輩にうっとりとした眼差しを向けている。私、いらないじゃん。  うんざりする反面、あの社交性は見習ったほうがいい、と思わされたことも否めない。  覚悟を決めた私は、出来うる限りの笑顔を浮かべて言った。 「是非教えてください」  すると先輩もどこかほっとした様子を見せ、早速、好きな映画とその理由を教えてくれた。  今になって思う。  このときはまさに〝嵐の前の静けさ〟ならぬ、〝嵐の前の喧しさ〟だったな、と。  私だけではない。  きっとこの場にいる誰もが、まさかこの後、自分たちが凄まじい出来事——それはつまり〝立てこもり事件〟であるわけだが、とにかく、そんなものに巻き込まれるとは夢にも思っていなかったはずだ。
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