一章 高遠千秋

5/53
15人が本棚に入れています
本棚に追加
/91ページ
 声の主はすぐに分かった。  誰もが顔面蒼白で涙したり心許ない表情を浮かべるなかで、その男子だけは頬杖をつき、うんざりした様子で宙を眺めていたのである。街で有名人を見かけた時さながらに、私は固唾を呑んだ。  状況が状況なだけに、躊躇う。  犯人の目がないとはいえ、悪目立ちをするのはあまりよくない。  それは十分理解しているけれど、それでも今動かないと一生後悔するという思いのほうが先立った。距離はさほど離れていなかったため、私はなるべく目立たぬよう細心の注意を払いながら、這うようにしてその男子のもとへと向かう。  そして、 「……ねぇ、あなた〝久留米〟の人?」  そう話しかけると、彼はゆっくりこちらを見た。  緩慢な動きとは裏腹に虚を突かれたのか、その表情はぱっと開かれている。  返事はなくとも、肯定しているようなものだ。  やはり彼は久留米の人間で間違いない。  体格はやや華奢のようだけれど、座っていてもそれなりに上背があることが窺える。ただ身体の大きさ以上に、透き通るような白い肌や繊細そうな顔立ちのほうが強く印象に残ったらしい。その姿は、私の目にはどこか儚く映った。もしかすると、この場で私たち二人だけが知っているであろう、彼のとある境遇に対する先入観も無意識のうちに加味されているのかもしれない。  自分も名乗るべきか悩んでいると、久留米の男は「ああ」と合点のいった様子で、ふっと表情を緩めた。 「高遠さんとこのお嬢さんか」  今度は私が驚く番だった。 「どうして私が高遠だって分かったの?」 「母親がどこかから嗅ぎつけてきたみたいで、聞かされていたんだ。高遠の子もあんたと同じ大学に入学するみたいよって」  なるほど、と納得する。 「お互いに情報は筒抜けってわけね」 「つまり高遠さんも俺がK大に入学したことを知っていたと」 「まあね。だからさっきの言葉を聞いて、もしかしてと思ったの」  憎み合っているのに詳しいだなんて。  好きと嫌いは表裏一体だと、よく言ったものである。 「久留米の男と高遠の女の人が同じ年に同じ大学に入学して、一緒に立てこもり事件の人質になるなんて。なんか凄いことになったね。あ、俺は久留米律っていいます」 「……高遠千秋です」  マイペースな久留米律につられかけたところで「いやいや、そうじゃなくって」と我に返る。
/91ページ

最初のコメントを投稿しよう!