一章 高遠千秋

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「あ、高遠さん」  目の前に立つと、久留米律はすぐに気付いてくれた。 「久しぶり」 「久しぶりだねぇ。学校来てたんだ」 「うん。ここ、座っていい?」 「もちろん」  ありがと、と言いながら早速向かいの席に座る。  久留米律は本を閉じると、こちらの顔を一瞥した後、目の前を行き交う人々を眺めた。つられるように私も同じことをしてみる。 「ここもようやく落ち着いてきたね」  それには言葉を返さず、うなずくにとどめておく。  事件直後、大学にはマスコミが殺到した。  なんせ人質の大半はこの大学の学生で、犠牲となった店主もまた卒業生だったのだから。  あのときはキャンパスの空気もやけに重苦しかったが、ここもまた少しずつ日常を取り戻しつつある。  こうしていると、あれは本当に自分が経験したことなのか疑わしく思えてならない。  コメンテーターの炎上こそあれど、ニュース番組で取り上げられる回数がすっかり減ってしまったことも影響しているのだろう。後発する様々なトピックに気持ちや記憶が上書きされていくこの感じは、自然の摂理といえるのかもしれない。 「なんかさ」  不意に、久留米律がそう切り出した。  重々しい口調に何かを感じ、私は背筋を少し伸ばして聞く体勢に入る。 「自分ってすごく薄情だと思うんだよね。こうして普通に大学に来て、授業も受けてる。あの場にいたのに血も涙もないというかさ」 「……それを言うなら、私だって同じだよ」  人質となった人々の中には、心理的ショックからカウンセリングを受けている者も少なくないという。ほかにも学校に来れなくなってしまった——どころか、家から出ることさえもかなわなくなってしまった人もいるそうで、命こそ助かったものの、事件は多くの人の心に傷を残してしまったことは明らかだった。  そんななか、何でもなさそうな顔をしてここにいる当事者二人。 「犯人たちも、どうしてああいうやり方にしたんだろう。もっと人様に迷惑をかけないようなやり方を選べば被害も少なく済んだのに。高遠さんもそう思わない?」  人を殺めるのに迷惑もクソもないだろうとは思ったものの、久留米律の言わんとしていることも分からなくはなかった。  あの事件は殺害された店主以外、誰一人として犯人から手を出されなかったのである。心に傷を負ったものは計り知れない反面、物理的な傷は誰も負っていないことが報道でも繰り返し強調されていた。 「あくまで私の憶測だけど、店主ってお店のことはすごく大切にしてたらしいじゃん。お客さんたちからも人気だったらしいし。だから犯人たちは店長の大切なものを、その目の前でずたずたにして追い詰めたかったんじゃないかな。私たちが閉じ込められていた部屋以外、お店は荒らされて酷いことになってたでしょ。あれがすべてを物語っているような気がする」  ふと、店に入ってきた犯人——二人の男たちがこちらに見せた表情を思い出す。  今になって思うと、私はあのときにあの表情を目にしたことで、自分に被害が及ばないことを本能的に察知したのかもしれない。  復讐を成し遂げた二人は今、何を思っているのだろうか。
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