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ただいま
「私は新崎、あなたと同じ名前よ」
街中でそう言われたのは、妻が亡くなってから二年経った、ある夏の日だった。
「え……なに?」
猛暑に加え残業続きの連日も手伝ってか、その時の俺はひどく気分が悪かった。例え女の子に声を掛けられたところで気分も上がるはずもなく、また、その女の子がドブネズミのように汚ければ尚更気分も下を向く。
「確かに俺は新崎だけど……この日本で新崎なんて名前はいっぱいいんだろ。もう行っていいか? 俺はこれから帰るんだ」
「私はあなたと同じ新崎よ。それに、帰るってどこに?」
「……」
「いつも家に帰らないあなたが、どこに帰るの?」
これには驚いた。
確かに、俺はここ数日忙しさにかまけて仕事から二時間かかる家には帰っていない。帰ることに体力を削るくらいなら、明日のエネルギーにとっておきたかったのだ。
しかしこんな不摂生で自堕落な生活のことを誰に言えるわけでもなく、目の前の汚い女が言うことは俺を除いては誰も知らないことだった。
「……なぜ知っている」
「知っているわ。私は、あなたが子どもの頃から知っている」
「……は?」
なんだ、それ?
冗談としても、流石に気味が悪い。
俺は逃げるように、その場から立ち去ろうとした。こんな奴を相手にしたって、碌なことにはなりはしない。ないとは思うが、俺を監視していたということもあり得る。いや、俺を監視なんて本当にないと思うが。
「どこ行くの?」
「……帰るんだよ、もういいか?」
「だから、どこに帰るの?」
「うっさいなあ……どこでだっていいだろ」
逆上させまいと極めて穏便に対応していたが疲労困憊とはこのことで、女への扱いが粗悪になっていくのが分かった。しかし、そんなこともう知るもんか。俺は、早く休みたいんだ。
「あんな狭い部屋で寝泊まりするくらいなら、私の元へ帰って来た方がいいでしょう? あなたの好きなカツ丼も作るし、お風呂のお湯も満タンに入れるわ。好きでしょう?」
「………………何でそれを知っている」
「フフ」
俺は会社に近いカプセルホテルに泊まっている。そして好物はカツ丼でお湯は満タンまではるのが好きだ。だから女の言うことは合っている、それだからこそこの上なく恐ろしかった。
「なんなんだよ、お前は! なんで俺のことを知っている!?」
「あなたのことなら何でも知っているわ。あなたと私は、ずっと一緒だったのよ」
「……知るか!!」
もう散々だ、なんだあの気持ち悪い女は!
俺は猛ダッシュでその場から逃げた。いくら気持ち悪い女だからと言って、男の俺には追いつけないだろう。
案の定、女は俺についてこれないようだった。しかしまだ言いたいことがあるのか、俺の背中に向かってずっと叫んでいる。
「見てよこのキズ! あなたが私につけたのよ!?」
「私はずっと待ってるの! 早く帰ってきてなさい!」
「死ぬから! あなたが帰って来ないなら、私死ぬから!!」
「殺されて、死んでやるー!!!!」
「な!?」
冗談じゃない!!
「なんなんだ、なんなんだ! なんなんだあいつはああぁぁ!?」
気持ち悪い、気持ち悪い気持ち悪い!
死にもの狂いで、俺はいつものカプセルホテルを目指して走った。
しかし――
「……待てよ」
足を止める。
女は気持ちが悪いのは確かだ。
それに俺があの女を知らないのも確かだ。
でも、どうして俺のことをあそこまで知っている?
家以外で風呂に湯をはったことはない。
家以外でカツ丼を食べたことはない。
どれも、俺の家でしか実現させていないものばかりだ。
じゃあ、じゃあなんであの女は知っている?
「まさか――家に入ってアルバムを見ているとか……?」
ここから二時間の家は俺が生まれ、育って、色んな経験を積んできた家だ。アルバムにそれらの風景は当たり前のように残っているだろう。
「……」
あぁ――
すべてが、つながった。
「……嘘、だろ!!」
それから俺は急いでタクシーを掴まえ、法定速度を超すスピードを強要した。そのおかげもあってか、二時間で着く家が、今日に限って短く感じるのだった。
「釣りはいらない!!」
家の近くで降ろしてもらい、少しずつ家に歩み寄る。怖いと気持ち悪いが俺の中をぐるぐる回って、そのたびに吐しゃ物が喉まで返ってきていた。それを何度も何度も飲み込んで、やっとのこと屋根が見えた、
その時だった。
おかえりなさい――
「……なんだ、これ……?」
俺は家の門前に立つ。
双眼に映っていたのは、ゴウゴウと火の手をあげて燃え上がる、懐かしき俺の家だった。しかもその音が俺を叱っているように聞こえ、その炎の勢いが俺を諌めているようだった。
「な、なんでなんでな――
………………」
古い家の火の手は回るのが早く、門前にいた俺のすぐそばまで来ていた。
しかし肝心の俺はと言うと、焦るよりも何よりも前に「あぁ」と胸のツッカエがストンと落ちたような清々しさに満ちていた。
――「見てよこのキズ! あなたが私につけたのよ!?」
――「私はずっと待ってるの! 早く帰ってきてなさい!」
――「死ぬから! あなたが帰って来ないなら、私死ぬから!!」
――「殺されて、死んでやるー!!!!」
そうか、そういうことだったのか。
あいつが俺を知っているのは当然のことだ。
俺があいつを傷つけたのも、おぼろげながら覚えている。
そうか、そういうことだったのだ。
あぁ、そうだったんだ――
「……放火、されちゃったのか」
こんなことなら、早く家に帰ってればよかったなぁ。そうすれば、こんなことにはならなかったのかもしれない――
その間も絶え間なく、火は家を飲み込んでいく。
今更水をかけたところでどうにもならないのは、火を見るより明らかだった。
「あぁ、こんなことなら、最後に身長を図りたかった……柱に傷をつけたのは悪かったけど、その柱を見るのが俺の楽しみだったんだよ」
本当に、ごめんな――
火の手につられるように、俺は赤い『あいつ』に身を落とす。
ああ、あったかい……
そう言えばこれが家の温かさであり、家族の温かさだった。
俺はいつの間に忘れてしまったんだろうな。
「あ」
そう言えば、まだ言ってなかった。
「ただいま、俺の家。また会えたな」
タイムカプセルでも、カラオケでも、満喫でもない。
やっぱり我が家が、一番だ。
【完】
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