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素敵なお客様
――は、はい。また来ます。
と答えた。その時、桃野はちら、と彼の調理服の胸元を見た。冴木、という名札がついている。
……冴木くん、か……。
――では、失礼します。……素敵なお客様。
冴木は糸のように目を細め、立ち上がり、「ごゆっくり」と一礼して厨房に戻ってしまった。残された桃野は、広い背中が見えなくなるまで、ずっと彼を視線で追っていた。
……素敵なお客様、だって! 新人さんなのかな? また会えるといいな……。
それが冴木への第一印象だった。
以降、桃野は食堂カフェに通うようになったが、しかし再び冴木と会話することは無かった。桃野と冴木が喋った翌日、その店がテレビで特集され、一気に繁盛してしまったからだ。
食事を終えても長居しているような雰囲気は無くなり、ひっきりなしにお客がやって来る。それに伴い、アルバイトの人数が増やされたようで、冴木は厨房の奥へ引っ込んでしまい、カウンターから見えない位置に行ってしまった。
桃野はちらちらと厨房を窺ったが、しかしシフトのせいか、会うことはない。他の店員に冴木のことを聞く勇気も出ない。
冴木が大学生で、自分より年下だということは、店員たちの会話を盗み聞きして知った。
それが何ヶ月も続き、寂しい、と思うようになった頃、ようやく自分が冴木に本気の恋をしていることを、自覚した。遅い初恋だった。
それから一年ほど、桃野は冴木に片想いする日々を続けた。呼び出して、告白する勇気など、もともと内向的で、奥手な桃野にはレベルが高すぎて、無理だった。
しかし、そんな古風な恋をする桃野を、焦れったく思ったのか、運命の女神は突然チャンスをくれた。
ある冬の日、雪がしんしんと降る夜だった。
職場の飲み会を終えて、日付が変わる頃帰宅すると、桃野が暮らすアパートの前に、若い男が座り込んでいたのだ。それは酔い潰れた冴木だった。
なんで冴木くんがここに……?!
桃野は驚いた。おそるおそる彼の肩を揺すると、ぴくりと反応したので、取りあえず部屋に連れて行くことにした。
……外は寒いから。風邪を引いたら大変だから。
自分に言い訳をして、冴木を立たせ、肩をかついで運び込んだ。身体が密着すると、酒精の匂いと共に、彼のシダーウッドの香りがして、ドキドキした。
しかし浮かれていたのも束の間。歩いた弾みに彼のポケットから、封の切られたコンドームの小袋がポトポトと落ちたのだ。
……冴木くん、誰かとエッチしてきたんだ……。しかも何回も……。
ショックだった。同時に、何故か桃野が羞恥に赤面してしまった。
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