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キスはなし
「なんでもありません。じゃあ……始めますよ」
「う、うん……」
「桃野さん、好きな相手がいるみたいだから……キスはなしで。俺もそういう気分じゃないし」
冴木が言った。
「キスは、なし。うん、了解。他には?」
ちく、とまた桃野の胸が痛む。
「特にありません。貴方はどうですか?」
「ぼく? ぼくは……そうだな……」
好き同士で付き合うわけではないのだから、ルールを決めなくてはいけないのだろう、と桃野は思った。
(えっと……)
桃野はしばらく考えた後、恋人ごっこをしていたおませな園児達の様子を思い出した。
子供たちは、『かわいい』とか『だいすき』とか『つきあって』と言いながら、遊んでいた。
つまり、それが普通の恋人達なのだから、情のない関係を結ぼうとしている自分たちは、その逆をすれば良いのではないか、と思った。
(ぼくが言われたい言葉、全部だなあ……)
桃野は長い息を吐いた。そして、口を開く。
「じゃあ……かわいいとか、大好きとか、付き合おうとか、言っちゃだめ」
桃野はおそるおそる告げる。冴木はどういう反応をするだろうか、と思ったが、しかし彼は眉毛の端をぴくりと動かしただけだった。
「いいですよ。重いの禁止ってことですね」
さらに言葉で伝えられ、桃野はがっかりした。やはり自分の完全な片想いだ。
桃野が自分がアルバイトしている店の客だと、冴木は気がついていないのだ。
(ぼくって存在感なさ過ぎ……)
そんなことを考えて密かに溜息をつくと、冴木が桃野のネルシャツのボタンに指をかけた。
「うわっ」
桃野は驚きに目を見開いた。
「ルールの確認は終わりましたね。じゃあ、始めましょう」
冴木はニヤリと笑った。今日初めて見る表情である。
(とうとう始まるのか……)
――もう後戻りは出来ない。
――ぼくは嘘をついたまま、好きな人に抱かれるんだ……。これから、愛のないセックスをするんだ。
桃野はセックスに慣れた感じを装う為に、冴木の首にこわごわと腕を回した。心臓がうるさいくらいになっていて、今にも口から飛び出そうだ。しかし、身体とは反対に、胸の奥はひんやりと冷たい。
(それでもいい。ぼくは……酷{ひど}い男になる)
――いくら心が痛くても、構わない。地獄に落ちたっていい。
――きみの近くにいられるのなら。きみがひと時、寂しさを忘れられるのなら……。愛されなくて、いい。身体だけで、いい……。
見慣れたカーテンの隙間から、深い闇が覗いている。そこは真っ暗で、星一つ出ていなかった。代わりにしんしんとぼたん雪が降ってくる。
桃野は覚悟を決めて、ぎゅっと目を閉じた。
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